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自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ

エントリーとドライバー;ツーリングカー;その2

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エントリーとドライバー;ツーリングカー;その2

先ほどの稿より大きいクラスだ。

CⅤ ツーリングカーレース 1300cc1600cc15ラップ 14

 トヨタワークス含むコロナの6台と、いすゞと外部で仕立てたヒルマン・ミンクス7台、英国のヴォクスホールVX4/90が1台だ。たぶん4/90ってのは4速と90psかと思ったら72psだった。シリーズ名はヴィクターFBとなる。コロナはコラムシフト3速のまま。ミンクスはフロアシフトだけど、3速かもしれない。予選第1位はヴォクスホールの酒井荘一。その後、1966年の鈴鹿1000kmレースでもヴォクスホール・ヴィヴァで出場。ディーラーか?

1

式場壮吉

コロナ

契約ドライバー

2

立石宜

コロナ

 

3

松永正義

コロナ

 

4

荒尾正和

ヒルマン

 

5

浅岡重輝

ヒルマン

SCCN

6

滝口憲亮

ヒルマン

 

これが、Wikipediaにも、資料本にも残されたリザルトだが、誤記だらけの資料本だけ見てきたように違う。2番目にフィニッシュしたのは予選第1位のヴォクスホール/酒井だそうだ。4速のヴォクスホールをなんとか抑えた式場のテクニック勝ちだと。JAFサイトでは、2番目フィニッシュし、結果に「dq」とあるから失格だ。走路妨害を取られたらしい。式場はご存知のように第2回日本グランプリで、トヨタが出ないクラスで個人でポルシェ904を持ち込み、プリンスのスカイラインGTの独走を止めて優勝した人。少し抜かれたんでスカイラインが有名になったけど。レース前からポルシェで練習走行していたボンボンで、社員じゃないが契約ドライバーになった。第2回日本グランプリ後、ピエロ・タルッフィーにコーチを受けたり、イギリスのジム・ラッセルレーシングスクール(トヨタ持ち)で、レースに対する考えを改め、レース活動は止めにした。いすゞヒルマン・ミンクスの連中はSCCNの連中と思われ、浅岡重輝はその後のいすゞワークスの中心になる人だ。
ヴォクスホールvsコロナvsヒルマン
式場壮吉コロナ

CⅥ ツーリングカーレース 1600cc2000cc20ラップ 17

多賀らクラウン4台は全てワークスカー多賀以外は自販が探してきた普通の飛ばしやさんだろう。スウィッシャーらベレル3台も全てワークスカー。プリンスのスカイラインが3台、グロリアが3台あるのは、体制はワークスだけど、R・ジョーンズと生沢徹以外は社内テストドライバーだろう。日産のセドリック3台は日産が持って来ただけのマシンだろう。R・ダンハムもいる。どうしてこのクラスでプライベートかわからないが。あと外車が、吉田隆郎の持ち込んだヨーロッパのフォード・タウナス17MTS。(どうも、タウナスと言えば大小を問わず西ドイツフォードの乗用車らしい)。17は1.7リッターを示し、Mはシリーズ名、TSはわからないがツーリング・スポーツか?初代のP2かP3が、見てみないと微妙なところだ。

1

多賀弘明

クラウン

契約ドライバー

2

K・スウィッシャー

ベレル

 

3

吉田隆郎

タウヌス17MTS

 

4

ドン・ニコルズ

ベレル

R381のムーンエンジンの人

5

戸国盛弘

セドリック

 

6

河島勇

クラウン

 

 多賀は前稿のように、大学自動車部出身で、トヨタ自販が応募したドライバーの中から、式場同様に契約金で専属になったドライバー。しばらくワークスにいて、その後TMSC(トヨタモータースポーツクラブ)の会長になっている。K・スイッシャーは米空軍少佐で朝鮮戦争でジェット戦闘機のパイロットだが、本国でもアマチュアレースで鳴らしていた人らしい。その後もベレルでマカオGPに出場し、トラブルがでたが、「チームのために」完走を心がけ、チーム賞を取っている。もちろん、作戦が終わったら、アメリカに戻った。外車を持ち込んだ吉田隆郎はわからないが外車が手に入る人だ。第2回には、戦闘力の高いロータス・コルティナをエントリーしている。それ以降はダイハツのワークスで活動した。ドン・ニコルズは軍人ではないが、軍人の需要目当てか、これからの日本の市場目当てか、レース用部品等を販売に日本に一時的に居を構えた在日米人。アメリカの意向で、富士スピードウェイ創設に初期に関わり、日産のプロトタイプレーシングカーR381のエンジンが間に合わないというときにシボレーのエンジンを輸入した。ローラでも同じレースにR・クラークの変名で出ている。のちにアメリカに戻り、シャドウ・レーシングを立ち上げ、ペタンコなCan-Amマシンでレース。イギリスに本部を移し、F1を始める。この辺のことはWikipediaのシャドー・レーシングに出ているよ。
多賀弘明クラウン
生沢徹スカイライン旧
R・W・ジョーンズ スカイライン
R・レイク グロリア
若宮徹グロリア
D・ニコルズ ベレル


 リタイヤしてしまった生沢徹は2輪で15歳のとき、初期の浅間の第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースでオオツキ・ダンディーという原付でギャルソンMCCから出場して、敢闘賞を受賞している。でも基本ボンボンで式場たちと同じ東京オトキチクラブというオートバイのスピードクラブにいた。その後はトーハツのワークスでランペットで戦ったり、ホンダワークスで戦っていた。しかし、若い長谷見昌弘に練習で抜かれて4輪へ転向を決意。もちろんこのあとスカイラインGT神話やプリンスR380対ポルシェ906のあと単身ヨーロッパF3/F2に参加し、日本のレーサーの個人の海外遠征のパイオニアだ、日本に帰ってきても富士GCとかで魅せてくれた。でも、もう日本のモータージャーナリズムには発言しないと決めている。

 

 ツーリングカーはこんな感じだ。では次稿。

 

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