自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
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さて、1969年だ。まず、全体を通して起った変化を書いておこう。マッハⅢ以外のオートバイは、全部燃料タンクの両サイドがメッキのデザイン(初めからメッキか別体パーツか知らない)だったのが、ヨーロッパ調に全部廃止され、カラーの塗装タンクとなった。ニーグリップラバーもだんだん廃止。モダンにしたいのとコスト低減だろうね。ヤマハのDS5Eは不評のセルを廃止してDS6へ。ティアドロップなタンクはアメリカ好みだろう。パワーはちょこっと上がって30ps。D系エンジンは初め16psだったから、倍近くまでスポーツしてきたんだね。
そして台風の目、ホンダCB750の発売だ。もうホンダはWGPで勝ちすぎて撤退。そのマルチシリンダー技術を一般にもという狙いらしい。まだ社長だった本田宗一郎が「こんなデカイの誰が乗るんだ」って言ったらしい(本田宗一郎は小柄)。もちろん狙った市場は日本ではなく欧米。アングロサクソンはデカイから。あとご存知のようにそんなに売れると思ってなかったので、クランク室鋳造が砂型鋳造。売れ行きが凄いので金型に変更。
日本でも即人気に火がついたのかはわからないが、軽自動車よりデカイ車がエラソーなように、大型の外車並みに大きいCB750は憧れの対象になっていったのは間違いないだろう。先を越されたカワサキがZ計画を900ccで練り直ししているが、自動車工業会申し合わせで、「日本販売は750まで」となってしまった。実際、暴走族問題より、小さな試験車両で取得した免許で、大きくてパワーの大きい750を扱いきれずに事故、というのが多発したらしい。「ナナハン」という言葉は暴走事故と暴走族で浸透したようなもんだ。
付属して小さいハナシを。スポーツバイクの市場はできた。ビジネスバイクの市場もできた。どちらもマシンを作って切り開いた市場だ。だけど、藤沢武夫に進言を受けて成功していた本田宗一郎は「日常の移動も、エンジンがあればもっと便利になるのに」と考えていた。自転車の先に。それは「バタバタ」に近い考え方なのだけど、「バタバタ」は自転車に補助エンジン。それじゃないものは・・・ヨーロッパには「モペット」というのがあるんだが、その考えからかペダル付きのモデルを作ってみた。ビーチボーイズの曲とは関係なくリトルホンダと言う。でも全然売れなかった。
もちろん、若くて初めてバイクに触れてみたい人には原付から入って修行すればいいのは昔から。ホンダは速いスーパーカブにニーグリップできる燃料タンクを付けてスポーツカブを売っていた。スーパーカブは紆余曲折デザインを経てスズキ(バーディー)、ヤマハ(メイト)が同じデザインで売っていたのでヤマハもこの1969年に水平エンジン流用の原付スポーツFS1を出している。
スズキはT500が前年に出たので、T21をT250と改めた。T500とT250の隙間を埋めるためにT350もデビューしたのだが、これは実は315ccの33.5ps。T250のボアアップでフルサイズ250じゃないね。CB77やYMの1周遅れみたいな、滅ぶマシンだな。
1970年に動きがあったのはヤマハだけみたい。まず、初めての4スト、XS1のデビューだ。ホンダとの勝負ではなく、イギリスの650ツイン狙い。マニアの人気は今でも根強い。ビッグバイクの下の普通なクラスでは・・・まずおさらいしよう。250はD系左キック、350はR系右キックだったね。この年は250はDX250で30ps、350はRX350で36psだ。アレ?DXが右キックだ。写真は2台ともそっくりだ。エンジンの形状を見て行くと、R系と同じ。つまり、ここでヤマハは250のD系を捨て、R系の縮小でいくことに決めたんだね。
整理しよう。スズキは250に名車はあるけど350は手薄。カワサキは350,250共用で、一応どちらも元気。ホンダとヤマハは350と、同じ設計でパワーだけが無い250。あれだけ花開いていた軽二輪のスポーツが本当に色あせてきた。
1971年はニクソン・ショックの年だ。1ドル=360円の固定レート廃止。海外輸出の競争力は価格ではなく製品の魅力そのものが問われていく。
上のクラス出遅れていたスズキの巻き返し、3気筒シリーズがデビュー。水冷のGT750、セル付きのGT550、そしてGT380だ。なぜかスズキは380にして350にしなかった。これは、250の2気筒の片方、125を3つ並べた375から来ていると思われる。車体は大型に引けを取らないサイズで、スピードよりもツーリングを狙ったのかもしれない。このデビューでツインのTシリーズもGT250とかGT500とかに変更。たしかGT350も僅かに併売していた(在庫だけ?)。だからかなぁ。実はGT380は重要な意味があって、事故増加や暴走族問題でナナハンに手を焼いた警視庁が免許制度を変えようとした際に、GT380なら民間自動車学校の試験でよかろうと考えていたらしい。また、実際に中型限定免許になったときも、デカくて車格がエラソーなので、人気車種になっていく。
カワサキは「40年お待たせいたしました」の広告で、350SSマッハⅡ(S1)をデビューさせる。「お待たせ」は国産車初のテールカウル。45ps。ヤマハRX350は36psなんだよ。走りはいつものカワサキ。
ホンダは4気筒の小型モデルに着手。CB500Four発売。CB750は日本人には大き過ぎで、このくらいのサイズがいいんじゃないかと。
また、原付スポーツはスーパーカブ派生みたいな水平エンジンだったが、ニーグリップできる燃料タンクがあると、ちょっとデザインがスカスカになるよね。で、ホンダはスポーツ系に直立した原付エンジンを作ってCB50を発売。カッコはいい。後にヤマハは追随したが、スズキはかなり出遅れた。
この頃までは、カタログに「最高速度」が書いてあった。記録狙いのモデル以外は実測値じゃなくて計算値だろうけど。若くて経験のないライダー予備軍が何を見て夢のマシンを決めるかといえば、まずカッコだよね。あと性能でカタログでわかるのは「最高速」と最大「馬力」でしょ。経験が無いと最大トルクとか実用トルク(性能曲線から読み取る)はわからないし。だからここでも出力psだけ書いてきた。でも、自動車工業協会の申し合わせで、暴走を防ぐために最高速度の表示はカタログから消えるんだ。
1972年に行こう。カワサキはまず、マッハシリーズを拡大。250SSマッハⅠ(S2)は350の縮小版。A1/A7の関係とは逆になって、ホンダやヤマハと同じ「250は350のお下がり」になった。でも元気いっぱい32psはこれまでのどの250より高い。そして、750SS(H2)。マッハのナナハンだ。74psでマッハの商品名は付かない。
スズキは3気筒GTの前ブレーキをドラムからディスクへ変更。GT500、GT350は生産中止。GT250はヘッドをラムエア化。
ヤマハもナナハンがやっと出た。TX750。ホンダの真似はしたくないんで、操作性の良いスリムなツインを選択。振動吸収バランサー付きエンジン。ところがトラブル多発したらしい。おかげで全然人気でない。今も忘れられた存在。ヤマハファンで、XS1にこだわる人はいるけど、4スト2作目のこれは忘れたい存在らしい。あと、原付でレジャーバイクのジッピーが出ている。
ホンダは、モトクロス競技の方で、2ストを使い始めた。これが後にエルシノアになる。そして、4気筒シリーズの末っ子、CB350Fourを発表。これが狙い外れだった。ちょっと整理しよう。
まず、ホンダはツインのCB350を併売していたということ。スズキの様な「名ばかりクラス」じゃない。また、4気筒であっても、販売上の戦略でツインとの価格差は大きくはなかった。日本でまだ、自動二輪免許が一種類しかない時代、CB350FourのCB500ForuやCB750Foruに対する魅力というのは少ない。アメリカは、実は制限速度を無視してぶっ飛ばすような連中は少ない。それよりも発進加速や中間加速が重視される。で、4気筒のスムーズな加速より、シングルやツインの爆発で加速するフィールの方が好まれたんだ。実際の測定値よりも体感でね。「全然速くないじゃないか」とか言われてさ。
2年後には対抗策をとるんだけど、それは次稿にしよう。あ、カワサキはいよいよ900Z1を海外で発売だ。カワサキの評価がガラリと変わった。これまでのA系やマッハシリーズでは「曲がらない、止まらない」だったが、ちゃんと曲がるし、止まる。弱点はCB750同様、超高速域でシミーやウォブルが出ることくらい。
また、高速道路だけだったヘルメットは、一般道の時速40キロ以上の走行に全部適用になった。でも、まだ罰則はないザル法。
大きなバイクばかりで、魅力を失いつつある250ccクラス。
1973年か。カワサキから始めよう。マッハシリーズの500SSがテールカウル付きのデザインへ変更、350SSが前輪ディスクに、テールカウルの形状変更。そして、どちらも1psダウン。ここから、各社の2ストは軒並み出力を下げていく。なぜなら、実用域のトルクを太くして使いやすくしたいからだ。初心者が比べたがるのはカタログの出力だが、運転しにくいものは離れていくということか。団塊ユーザーも減っていくし。
カワサキは自工会申し合わせでZ1を縮小して750RSを日本発売。ボアだけでなく、ストロークも変更したとよく書いてあるが、Z系は組み立てクランクだから、鍛造クランクの変更(というより新作)のように大きな投資がかかる訳ではないよ。
ヤマハは4スト第3弾として、TX500を発表。4バルブDOHCのツインというマニアックな仕上がり。2ストは350~50までを全て「RD」というシリーズに呼び名を固定する。
もちろんRD250はDX250同様のRD350のお下がりだ。
リトルホンダ失敗のホンダは、2ストエンジンで再度モペットを試みる。ノビオは自転車ペダル付きだ。これもあまり売れなかった。
そんな理由ではないが、本田宗一郎と藤沢武夫は「そろそろいいか?」と、社長の座を降りて、後輩に会社を任せていく。
ところが年末にかけて、中東戦争からオイルショックが始まった。実際に買い占めや狂乱物価、深夜放送の自粛、街角からネオンが消える、日曜日のガソリンスタンド休業なんてのは年明けの1974年からなんだけど、開発する方のフトコロも、買う方のフトコロも直撃する痛いハナシだ。オートバイなんて実用のものではなく、趣味の乗り物なのに、用も無く乗っていたら指差される時代なんだから。
その1974年、ホンダは不評のCB350Fourを改良する。エンジンを408ccに拡大し、スタイルをユーロピアン・カフェレーサーっぽく仕上げたCB400Fourだ。排気管は初めから1本に集合させている。日本ではまずまずの人気を回復した。たぶん、カッコイイからだ。
250が熱かったころのような低いハンドルバーも実に似合っていた。単色の燃料タンクもさまになる造形だった。だが、アメリカではそれほどのカンフル剤にはならなかった。
理由はある。ここでカワサキが、現在日本では、誰からも忘れられているマシンを出したのだ。日本名400RSである(アメリカ名は知らない)。はっきりいって日本では売れていない。Z400と名前だけ変えても、とても地味。1978年にZ2のように、エンジン黒塗装して、テールカウルをつけたデザインに変更したけど、やっぱりライバルに埋もれた。ちょこっと売れたのは、1979年にチョッパーっぽくZ400LTDを出したときだけ。そんな地味なマシンが何故重要なのか、説明しよう。
アメリカでは1969年にマスキー法が可決した。大気汚染防止のために、排ガスをクリーンにしようというアレだ。すぐには対応できないので実施は1975年以降とされた。もちろん自動車だけでなく、そのうちオートバイに来るのは決まっている。だが、ホンダ以外は2ストがメインだ。排気タイミングが怪しく、オイルを同時に燃やす2ストでは排ガス規制突破は困難だ。だから4ストの方がいい。
アメリカではホンダのCB350FourよりCB350ツインの方が人気があったように、大型では4気筒が受け入れられるが、ミドルクラスはツインの力強い加速が好まれる。
アメリカでは250の税制メリットはない。だから350に人気が移ったのだが、別にアメリカでは350というクラスも意味が無いので、同じ金をかけるなら、排気量を広げてトルクを稼いだ方がいい。ミドルクラスマシンというのは、アメリカ人にとって、その辺を行き来するのに使う、お買い物バイクのような感覚らしい。
そんなわけで、お安いツインを400で作りました。コストダウンのために、クランクを逆転させ、ミッションまで1軸減らしてあります。価格はポッキリです。
バリューから言えば価格破壊である。競争しようとすると他社は値上げできない。事実、CB400Fourは4気筒だから別バリューなのだが、2気筒車と価格競争しようとした。結果、利益よりも損失が出る赤字マシンへ転落する。
あと、実はカワサキは350SSを400SSに排気量アップしてた。スタイルが後のKHと同じでパワーは変更なし。でも弟分の250SSは28psにパワーダウン。
でも、そろそろ団塊はバイクではなく、自動車に移っていく。
1975年は、モデル的には何も無い。ところが、将来の市場となる子供たちに異変が。はっきりと外部からわかる、「スーパーカーブーム」である。オイルショックだというのに、出るんだか出ないんだかの最高速度300km/hと、誰にでも異次元の乗り物とわかるスタイル。知っている方もおられるだろうが、池沢さとし氏の少年ジャンプの連載「サーキットの狼」で子供たちに火が付き、サンスターの展示会、TVのクイズ、プラモや消しゴムまでわっと波及し、すぐに凋んだ。凋んだとはいえ、子供たちに、イタリアンなデザインの他に、あまり意味の無い最高速や最高出力、DOHC、V型12気筒なんかの言葉を覚えさせた。もちろんこの世代は、スピードに順直で、スペックにこだわる連中になることは必然だ。
漫画の話は他にもある。1974年に、少年チャンピオンでは「がきデカ」が連載され、子供たちが「死刑!」と叫んでいた。そんな人気のあった少年チャンピオンで1975年から「750ライダー」の連載が始まる。初期は目つきの鋭い主人公が暴走族や街道レーサーと競う内容だったが、あっというまに丸い目で、委員長とラブラブな青春マンガに転向した。スーパーカーは夢のマシンだが、オートバイなら主人公になれるかもしれない。そんな思いを抱く少年たちがいても不思議じゃない。そういえば、この子らは、昭和仮面ライダー世代でもあるな。バイクはヒーローじゃん。
でもこの頃から、免許取得可能な16歳である高校生に対し、高P連(全国高校PTA連絡会)が暴走族対策として、「3ない運動」を始める。1.免許を取らない・2.バイクに乗らない・3.バイクを買わない。もちろん、全メーカー反発で、交通教育こそすべきだ反論。初めはお手軽に暴走族対策が出来ると手を貸していた警視庁も、事故防止には交通教育であるとの統計結果から(3ないしないで、教育している学区の方が事故が無いのだ)反対に転じ、バイクブームの1982年に尻すぼみ。1904年には高P連の3ない運動は憲法違法であると判決が出ている。全く、昨今の自転車の問題と同様だね。仕事をサボっている教育行政側が前例のないものを教えていないだけなのだが。
1976年、いよいよHY戦争の兆し。その前に、行政は、あの、免許制度改正を実施した。これでもう、ナナハン免許を取るのは至難の業に。免許を与えたくない白バイ警官が審査するんだもの。あと、このころの暴走族は、まだ免許を取っていたんだね。免許が無いと買えないからね。(現在は無免で盗んだ車両や先輩のお下がりで流す)ここで、中型の上限を400ccとしたのは、カワサキのSS400や新しいZ400の影響ではなく、警視庁側が350ccクラスより少し大きい、GT380までは認めていいんじゃないかと考えたことらしい。
割を食ったのはホンダ。CB350Fourのパワーアップを408ccにしてしまったので、中型限定では乗れない。あわてて398ccに縮小してCB400Four-Ⅰ、Ⅱを出す。
ヤマハRD350もRD400へサイズアップ。このときRDシリーズ全車、四角いデザインへ変更。カワサキの角Zなんてもんじゃない。タンクからシートまで面一の、棺桶デザイン。かなり不評だったらしい。TX500まで同様のデザインのGX500へ変更。
カワサキはマッハシリーズをKHシリーズと名前だけ改め。KH500は52psへパワーダウン、KH400は38psにパワーダウン、KH250は変わらず。
あと、罰則の無かったヘルメット着用は罰則が出来た。時速40キロ以下はOKということは、捕まったら、40キロ以下で走って、帰るか、ヘルメット買って来いってことかな。
そして様々な文献に書かれているHY戦争の始まりだ。ビジネスバイクでなく、家庭用一般(特に女性)に買ってもらうにはどうすればよいか。メカはシンプルで扱い良く存在を気にさせないもの、当然だ。だからモペット式のペダルはむしろ邪魔だ。大して速度も出ない。安価に作るなら、ママチャリのような構造で充分だし、簡単だ。セルスタートは簡単だが、重くて価格にひびく。なら、ゼンマイ巻上げでエンジンを始動させよう。こんな着想が形になって、ホンダ・ロードパルは生まれた。自信をもっていたので、大々的にCMを流すことにした。大林宣之監督で、ソフィア・ローレンを起用して作った。「ラッタッタ」の掛け声は大林監督が決めたものらしい。
まだヘルメット着用義務が無いから、ドカッと売れたんだろう。主婦の皆様が買い物なんかに使い始めた。販売店に掛かってくる苦情の電話は「エンジンが掛からない/止まってしまった」が大半で、「椅子の下に燃料のコックがありますから、RESに廻して下さい」で解消したらしい。もちろん「早めにお近くのスタンドでガソリンをお入れ下さい」と付け加えるんだけど。
ヤマハは指を咥えて見ていた訳ではない。本当はパッソルはロードパル登場の1年以上前に開発・試作が終わっていた。だが、首脳陣の「時期尚早」との判断でお蔵入りしていた。だから、ホンダが市場を作ったので、そこに投入した。値段も1万円しか差が無い。HY戦争なんて言ってるくせに、自分から市場を作ろうとはしてないのがちょいと情けない。市場投入は1年後の1977年だ。なんにせよ、簡便に作ったスクータータイプのパッソルは、エンジン始動こそただのキックだが、CMに八千草薫を起用して(新たに免許を取ってもらった)、「私にも乗れる」「ソフトバイク」として認知された。スクーターという名称を使わなかったのは、ホンダ同様、ヤマハも昔スクーターに手を出して酷い目にあったからか、ベスパなどのイメージを嫌ったためかわからない。八千草さんはヘルメットを被ってCMに出たが、ソフィア・ローレンはCMでは被っていない(周りを走る女性たちは被っている)。
ヤマハは「ソフトバイク」と一貫して呼んだが、一般にはこの拡大された市場を「ファミリーバイク」と読んだ。もっとも、「ラッタッタ」の印象が強くて、出遅れたスズキなどに、「スズキのラッタッタはまだなの?」なんて言葉が使われたもんだ。
この成功で、ヤマハは販売量業界1位をホンダから奪おうとしたらしい。詳しくはWikipedeaのHY戦争を参照して下さい。
ロードパルで手軽な足として、女性にアピール。男性にも安価な足としてアピール(自動車の普通免許で乗れるものね)。ロードパルは売れ、パッソルも売れた。そしてずっと業界2位だったヤマハは、ホンダを超えてトップになることを目指す。HY戦争の始まりだ。
いいこともある。これで、原付では、バイクに対するネガティブなイメージが下がった。乗り出した女性たちは走る楽しみを理解したのだ。3ない運動は依然続けられるが、少し弱まった。ファミリーバイクが即座に暴走族には関係するとは思わないだろう。本当はレディースなんかにパッソルは愛用されているのだけど。
法規上原付運転にヘルメットはいらない。髪を気にする女性は、ヘルメットが無い方がいいのかな?(走行風で乱れるような気もするが)
スポーツバイクがまたほぼ同レベルになる1977年の本番は、次稿ね。若い人の乗れる上限は400ccになってしまった。250ccには魅力がないぞ。