自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
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「バタバタ」は前回まで、そろそろオートバイの話にしていこう。ただし、富士登山レースや浅間レース、マン島TTとか世界GPとかの話は無しね。
1954年には目立った動きは無い。ヤマハが参入してくるのは1955年のことだ。楽器以外を、と考えていて、ドイツのハーキュレーとDKW RT125を比較して、DKWのコピーを出すことに決めた。DKWはドイツの4つの自動車メーカーが集まったアウトユニオンの一つで、終戦でドイツが東西に分裂した際に分断されてしまったメーカー。実は4ストに比べてなかなかパワーが出なかった2ストエンジンをちゃんとパワーが出るようにシリンダーのポート加工方法を確立したのがDKW。ちなみに東ドイツに分割されてしまった方はMZとメーカー名を変え、ロードレースGPで2ストの星として活躍し、エルンスト・デグナーの亡命からスズキにチャンバーの技術をもたらしたのは2スト好きならご存知かな。初代YA-1は、そのままコピーでパイプフレームだった。
そのころのホンダというと、125のベンリーはまだ2ストで鋼板プレスバックボーン、ドリームSAが新発表で、初めてOHVからOHCになった250シングルだ(ドリームは200cc未満から少しずつ拡大してきた/ただし途中で調子が悪くなるというホンダ第1の危機があった)。もちろんプレスバックボーン。ヤマハもYA-1のパイプフレームに何かあったのかもしれない。年内にホンダ式のプレスバックボーンのYA-Ⅱに変更している。
スズキもコレダ125を発売。カワサキも125くらいまでなら実用車を出している。
ここで、250ccな話をしよう。先稿にも軽二輪の話を少ししたけど、当時の免許制度は、許可制の原付免許、250未満の軽二輪、250以上の自動二輪という区分だった。実はコレ、車検だけでなく、走行区分というのが違った。1車線でも、軽二輪は左側、それ以上は右側を走って良いという変な区分があった。もちろん運転免許検定試験が易しいのは軽自動二輪免許(どの程度か知らないけど)。まだ、交通量もそんなにないし、車検の手間とカネを考えたら軽二輪がまだ貧しい日本には望みだ。だからスポーツとしては各メーカーは250に力を入れたくなる。吸収合併されちゃうけど、メグロやみずほ自動車のキャブトンや陸王とか、大きなバイクのメーカーは細々とはやっていたんだろう。
スズキは1956年にコレダTTという250シングルを発売。現在ある中沖さんの単行本では軽くしか触れられていないが、実は連載当時には大きな自筆イラストで解説されていた。売り出し文句は「オートバイのキャデラック」だそうだが、本当にクロームメッキでギンギラギン(もちろんオールメッキじゃないよ)。マフラーにフィン状のヒレ付けたりとデコトライブ。ヘッドライトナセルは、丸いヘッドライトの下に横一文字にポジションランプが並び、ミラーに映る様は「ガイコツ」だったらしい。ちなみにこのナセル、ポジションランプのせいで下がフラットになったので、これ以後もしばらく、スズキの実用車などのヘッドライトナセルはポジションランプ無しでも上は丸く下は水平となっていた。
1957年は当たり年だ。ヤマハは175ccのYC-1をまず出す。これもDKWのエンジンのコピーらしい。
外観デザインを手がけた小池岩太郎は、独立して「GKデザイン」という工業デザインの会社を興す。以降のヤマハ発動機製品ほとんど手がけてるし、キッコーマンの醤油注しのデザインも彼らだ。
ホンダは250ccが2気筒になった。本田総一郎が輸出まで念頭に、「日本的なスタイルに」ということでプレス技術を駆使して作られた名車、C70だ。18ps。「神社仏閣デザイン」って言われたね。このくらいは本にあるのだが忘れられているのがC75。C70のボアアップ305ccバージョン。狙いは「軽二輪の上、中央寄りの走行」さ。パワーに大差なし。
ヤマハの250ccはホンダ同様2気筒で来た。ドイツのアドラー社のファポリット・スプリンター250という16psのエンジンをコピーし、YD1を発売。車体は鋼板バックボーン。
煙モクモクのコレダTTはわからんが、YDもC70も市場からは好評だったらしい。実用も兼ねたスポーティーバイクで(分割されたリヤシートを外して荷台にもなる)。カミナリ族もこの2台から始まったらしい。メグロだった白バイは手を焼いたらいいよ。だって、それまでの交通の取り締まりって、危険運転やスピード違反ではなく、戦後のヤミ市に運ばれる統制品の不正輸送の摘発が主だったんだから。もちろん、自動車も少ないから駐車違反取締りとかもユルイんだろうな。
1958年はスポーツじゃないところのエポックメイキングだ。ホンタの藤沢武夫が「蕎麦屋が出前でオカモチ下げて行けるような原付があれば」の進言に否定的だった本田宗一郎がスーパーカブC100という回答を出したのだ。そろそろ鋼管パイプの品質が上ってきたので、お得意のプレスバックボーンと組み合わせた簡素な車体。オカモチ下げても発進・変則できる自動遠心クラッチ。多少の濡れた路面でも汚れないレッグシールド。そして一番の驚きはエンジンだった。まだOHVのエンジンで、2スト以上の高出力で、125ccの2ストでも80~90km/hがやっとのところ、8500rpmも廻って70~80km/hまで出せた(戦前戦中の航空機のエンジニアがその回転数に驚いてホンダに転職したというハナシもある)。これでラビットやシルバーピジョンのスクーターは小さいものから失速していく。シルバーピジョンは1964年にラビットは1968年に生産中止だ。
ところでスーパーカブ出す前のホンダの原付はどうなっていたのかな?1952年のカブF発表以降、いつ生産中止とか、全然データが無いぞ。
そしてスーパーカブ以降の話できちんと考えておかなければならないのが、輸出のことだ。もちろんスーパーカブは輸出の切り札、第一陣となったハズだ。それ以前は?私だって詳しくはわからない。だけど市場について資料に当たったり想像したりして整理すると、
1.ヨーロッパはそれぞれ伝統的なメーカーがあり、戦後とはいえ供給と市場需要は新興日本車としてはあんまりなさそう。
2.アメリカは自動車が行きわたりオートバイの市場はスピード狂の好き者(イギリス車を好む)とヘルスエンジェルのようなアウトローバイカーのみの狭い市場しかない(ブラックジャケットというらしい)。しかも軍用ハーレーが終戦で安価に市場に放出されてる。
3.オセアニアはよくわからない。ただし、ヤマハは他社よりオセアニア重視だったもよう。
4.中南米もまだわからない。ゲバラがバイクで駆け回ったのは1951年、マシンはイギリスの1939年型ノートン500モデル18。彼はもともと裕福な家庭らしいし、ポテローザ号は10年選手のポンコツだ。あんまり市場は無さそうだなぁ。
5.ソ連は、東ヨーロッパの製品でなんとかなるはず。西側の製品なんか要らないのだよ、冷戦初期は。
6.中華人民共和国は自転車の時代。
7.アラブ、アフリカ、インド、東南アジアはたぶんまだ市場が無い。
ってところじゃないかな。重要なことは、アメリカにオートバイの市場がほぼ無く、日本の暴走族のように白眼視されてた、ってことだよ。もちろんスーパーカブは共産圏以外には着実に売れていくんだが。
資料で調べたスーパーカブの歴史では、アメリカ輸出は1959年からってなってるし、輸出仕様のCA100は1962年ってなってる。どっちかわからないが、ホンダはスーパーカブをバイクショップに置くんじゃなく、スポーツショップやレジャーショップに置く販路をまずつけた。釣りやハンティングにどうぞ、ってな具合で。これは当たったらしい。そして有名なキャンペーン「ナイセスト・ピープル・ライド・オン・ホンダ」( Nicest People Ride On Honda )を始める。日本でも「良き人、ホンダに乗る」って宣伝していたんだ。これで、アメリカの若者たちが手軽なバイクの魅力に気がついた。そう、死んでいた需要を掘り起こしたんだ。ならず者の乗り物からスマートな乗り物へ。少し年は下がるが、1963年には「サーフィンUSA」で有名なビーチボーイズとタイアップをしている。「ホンダ55キャンペーン」を彼らが歌ったんだ。日本のバイクブーム初期に、スズキが鼻を整形する前のマイケル・ジャクソンをスクーターのCMに起用したけど、あれは日本市場のハナシで、ビーチボーイズのキャンペーンは北米とヨーロッパまで影響する凄い規模だ。彼らは64年に「リトル・ホンダ」って曲をアルバムに収め(ソノシートはホンダ販売店で配り)、ライブのときにスーパーカブに乗って舞台まで登場、とかまでしいてた。「リトル・ホンダ」って曲は「ホンデルズ」ってグループがカバーして、全米9位までチャートを駆け上っている。オリジナルもシングルカットされて北欧で凄いチャートアクションだったらしい。
ちょっと時間を戻そう。1959年にはヤマハがYD1のエンジンをベースに20psまでパワーアップして、スポーツ専用車両、YDS1を発売した。鋼板プレス材のない、パイプワークフレームで、低いハンドル。剥き出しのエアクリーナーはまるでマシンガンのドラムマガジンのようだ。ハッキリ言ってカッコイイ。もちろん名車だ。
翌年1960年にはホンダが対抗する。CB72だ。これも、初めてフレームがパイプワークだ。24psとYDSより多いけど4ストだからちょっと重いから同レベル。これもハンドル低くてカッコイイよね。エンジンパワーアップでC70もC72に格上げ。C75はC77、CB77って名前で305ccで健在。クランク角度のハナシはあえてしないでおく。YDS1オーナーだった中沖さんによると、CB72は倒しこみが重かったらしい。「頭が重い」って。
本格スポーツ車だから、日本市場はもちろんこれらを求めたろう。そして、スーパーカブやビーチボーイズの歌や「ナイセスト~」のキャンペーンでオートバイの楽しさに目覚めたアメリカの若者だってこれらを求める。ドッジ・ライン1ドル360円に固定で日本製品は安いし、いい輸出材料になったハズだ。他のメーカーだってホンダが掘り起こしたこの大市場に売って出たいのは当然だろう。
まだスズキとカワサキは桧舞台には出てこない。その前に少し。
YDSは2年後の1961年にパワーを23psに上げて、ブレーキを強化してYDS2になる。確認できるのは、260ccにボアアップしたYES1が出ている。ヤマハ初の脱・軽二輪だね。さらに2年後の1964年に混合燃料からオサラバ、オートループで1psアップのYD3になる。24psか。このときには305ccボアアップ版のYM1が出ていること。26psだって。あんまり差が無いなぁ。センター寄り走ることができればそれでいいのか。
次の年1965年からスズキが出てくる。が、それと同時に起こることもあるのだ。詳しくは次の稿。この稿のまとめとしては、日本のスポーツバイクは250ccで磨かれたということだ。
1965年、スズキもスポーツバイクの世界に25ps、クラス初の6速ミッションのT20を引っさげてやってきた。ちなみにオタク俳優、京本政樹の研究で、スズキが協賛に入った仮面ライダーの最初のサイクロン号がこいつらしい。面白いことに、YD系もT20系もキックペダルが左側なんだ。
そしてこの年、日本の行政で不思議が起こる。通称「ポツダム免許」。軽二輪免許だった人も自動二輪全てOK。何という気前のいい行政改革。何でこうなった?道路交通法の改正らしいけど。
実はまだホンダも「バタバタ」だったころの1949年の法改正で初めて自動二輪と軽二輪の運転免許ができて、ついでに古い映画でお馴染みのオート3輪用の自動三輪の免許もできた。それが、ある程度まとまった軽自動車の生産をスズキが開始(サンダイメーカーはあった/ミゼットもスバルももっと後)する1年前の1956年に、運転免許は軽二輪の試験をやめて自動二輪に一本化してるらしい。で、軽二輪、自動二輪、自動三輪の運転免許で軽自動車もOKになっていた。軽自動車だけの人には軽自動車運転免許があるんだけど。そのへんの救済措置で「ポツダム免許」になったのかも。
このハナシの最終的なオチは皆様にもそろそろ想像ついてると思う。ナナハンが出て、未熟な乗り手の事故が多発したり、暴走族が警察の手に余るほどの威力を発し社会問題化して、自動二輪の免許が中型限定までは民間の自動車学校で取得できるが、中型以上のオートバイに乗るには限定解除免許を行政の免許センターで取らなければいけないことになってしまったことだ。だから、この後の免許制度の変更は慎重になった。日本語版Wikipediaにも出ていないことだが、運輸省(当時)と警視庁との縦割り行政の狭間で軽自動車免許が問題になった。排ガス規制対応で軽自動車はそれまでの360ccから550ccまでエンジンを拡大してよいことになった。550ccでも軽自動車なんだから、取得時に軽自動車免許だけだったの人はそれでいいでしょ?いや、何かわからんかったが、国の予算を取って、軽自動車免許の人に審査だけで普通自動車免許に更新できるように計らってる。軽自動車の存続そのものが危なかったのかもしれない。免許情報がどんな風に管理されてたか知らないが、当時なら、軽自動車免許取得者から普通自動車免許に書き換えてない人を絞り込んで、はがきか何かで審査に来るように送付して・・・大変だったと思うよ。
自動二輪免許の試験車両も中型限定免許が出る前の年にやっと300~400ccと規定されたんだ。それまでは、どんなクラスの車両でやってたのか、私には想像つかない。
そうそう、1965年は、ポツダム免許と共に、戦後のベビーブーム世代、そう、高度成長経済を間近に見てきた、団塊の世代が免許習得可能になった年でもある。T20は出たばかり、次に書くA1は1年後だが、CB72やYDSの中古は出回っていることになる。学生運動の中核である大学進学率は低いが、中卒でも都会の中小企業では「金の卵」だ。そんな若者のレジャー市場があっただろう。高校生だって、自動車を買うほどのお金の無い大学生だって市場だ。子供時代には、TVで月光仮面を見ていた世代だ。一方、そろそろカミナリ族から暴走族へと変化しつつある。ただしスピードを出す方の暴走族だ。まだ、免許とマシンは自前だ。
また、行政のことだが、ポツダム免許の換わりか、ヘルメットの着用義務が。ただし、高速道路のみ。しかも罰則なし。ザル法だねこりゃ。
行政のハナシとは別に(?)カワサキもやっと1966年に250A1で参入。クラストップの31psだ。もちろん性格はザッパー。煙モクモク、加速ズドーン、曲がらない。
スズキも早速それに応じるかのようにT21に変更。30.5ps。同年、ホンダはスーパーカブの対米輸入を中止。小型バイクのVWビートルという風な普遍性を狙ったが、外れて販売がかなり落ち込んだらしい。
もちろんスズキもカワサキも輸出をした。T21の輸出名は後にオフロード車に付けられる「ハスラー」、A1の輸出名は「サムライ」だ。もちろんアメリカでは人気出てるぞ。
そして1967年だ。この年はとても重要。車検以外は軽二輪と自動二輪が性能/価格差以外は無くなっている。250のボアアップで300チョコチョコでお茶を濁していたメーカーが、それ以上を求め始める。どんな順番かはわからないが、並べていこう。
スズキはモーターショーに「スズキファイブ」を展示。500ccの2気筒だ。当時は空冷ツインで500ccは放熱が難しいといわれていた時代。(無かったわけではない)
カワカキはA1のボアアップで350A7を出した。A1のエンジンは、ボアアップの余裕があったということだ。悪い言い方だと、「駄肉がある」なんだが、A1が遅かった訳ではないので、この方法が他のメーカーに影響したのかもしれない。45.5psとハイパワー。輸出名は「アベンジャー(復讐者)」。敗戦国ネーミングじゃないだろうね。
ヤマハはYD系はYMレベルまでしかボアアップできなかったので、350専用マシン、R1を発売。完全にYD系より大型車だったそうだ。36psはじゃじゃ馬A7より低いが、完成度はたぶん高い。三億円事件に使われた偽装白バイもこのマシン。ポツダム免許でR1を買った中沖さんは、「白バイは4ストだから、最初から2スト乗りを洗えば犯人が捕まったろうに」って言ってた。本人がこっそり調べられていたのはずいぶん後のことなんだって。で、250の方はDS5Eという12Vセル付きになった。頑張って29.5psだけどセルは不人気だったらしい。305ccのYM1がM2に進化して31psのときは付いてないんだから。M2とR1のラップ期間は何処にも資料が無いのでわからない。
そしてホンダは遂に、C70から使い続けた、イタリアのラベルダも真似た、フレーム強度部材となる前傾2気筒エンジンを止め、直立した2気筒でCB350、CB250を同時発売した。カワサキA系と同じく、250と350の設計が同じ。というより、これは350を縮小した250と言っていいだろう。
日本では行政が免許制度を変えて250のメリットが維持費以外薄くなった。アメリカには、オートバイの免許に排気量制限が無い。じゃあ速い方がいいじゃないか。
排気量クラス分けの250、350っていうのはヨーロッパでは意味があった。今の日本みたいに、若年層は350までとか、維持費が安いのは250までとか。
だから、今のMotoGPになる前のWGPだったころ、250クラス、350クラスがあった。350クラスは1988年で先に終了してるけど、1977年には在日韓国人の片山敬済が年間チャンピオンに輝いている。250クラスは原田哲也、故・加藤大治郎、青山博一が年間チャンピオンになってるよね。
そんな意味で、350クラスでマシンを開発して250はスケールダウンでいけるように、というのは大量生産で稼がなければならない当時のメーカーの当然の判断なんだろうな。CB72からCB250に変わってホンダファンは悲しんだって言うから。
1968年には、メグロやホスク以外の大型車が(もうそれらは250クラスの攻勢で滅びてるんだが)。カワサキは世界最速を目指して500SSマッハⅢ(H1)が発売。60psで加速はザッパー、曲がらない止まらない後家作り。でも大人気。フランスの人気は凄かったらしい(似た様なモデルが作られている)。スズキは参考出品していたT500を発売。47psは同排気量のマッハに比べると小さく思うかもしれないが、T500は中型バイク並みに小さくて軽いんだ。だから人気。マッハⅢをベースにしたレーサーH1Rはたいした成績を残していないが、T500ベースのタイタンレーサーは結構いろんなところで勝っている。
1969年はもっと凄いことが起きてくるのだが、それは次稿にしよう。250ccで磨かれた日本のスポーツバイクが上も見始めた。