自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
いったい何だったのだろうか?あの80年代からの狂乱のバイクブームというやつは。
今ある、その辺の書籍をさらってみても、「こんなモデルがどんどん発表されていました」、ばかりで、何も回答にならない。
HY戦争?あぁ、確かにあったさ。でもあれは、原付ファミリーバイクのハナシが主なんだ。何だってスポーツバイクまで、乱開発・乱発売になっていったんだい?
原因は多々ある。日本の市場と意識、主な輸出先のアメリカの動向。その辺はYとHだけじゃなく、KもSも深く関わってくる。
「市場と意識」って書いてしまったけど、これも重要なハナシで、市場の無いところを掘り起こすこともあれば、潜在市場が何求めてるか、とか、売れる製品には意味がある。そして他社が追随するんだ。
市場としては、高度経済成長のことがある。また、それによって生まれた高度消費社会の爛熟がある。戦後ベビーブームからなる団塊もいる。そしてバブル経済。
メーカーは戦前にあったものは全て絶え、戦後にオートバイを作り始めたメーカーに取って代わった。
エラソーに書いてるけど、私だって生き字引のような人間じゃない。たまたま、あの時代に昔話しに興味を持っただけさ。
みんなに目に見えて爆発する少し前(にもブームの片鱗は訪れてるんだが)の1978年から2年間、浅間ミーティングクラブの発起人の故・中沖満さんの連載がバイク雑誌で始まった(物書きとしては処女作)。戦後の日本のスクーターやオートバイなんかに関しての自叙伝だ。たまたま私はこれを読んでいて、とても楽しかった。とはいえ、これだけじゃ資料に薄い。
各メーカのサイトでコレクションを覗いても、成功車やエポックメーキングなものはあっても、地味なものとかは全然詳しくない。
小関和夫さんや大久保力さんの書籍は結構役にたったが、何故、あの狂乱を迎えたのかが書かれていない。
仕方ない、私が知ってる限りのことを、わかりやすく書いてみよう。
これを書き出す前に、必要なモデルの発表年と社会の動向が(自分に)わかりやすいように年表を作ってみたんだけども、メーカーサイトは必要モデルが全然出てないので、昔買ったエイチムックと図書館で見つけたネコ・パブリッシングのモデルブックを参考にしたが、エイチはモデル年が合わないこともあるし、ネコに至っては、解説誤記だらけだった。それでも無いよりマシ、と思い、年表を駆使して、いきなり戦後から始めてみたいと思う。
あ、本当は、「自動二輪」は「モーターサイクル」であって、「オートバイ」ってのは和製英語で本当は好きじゃないんだけど、わかりやすいように、ここでは「オートバイ」、「バイク」の表記でいくからね。
始めは終戦焼け後からだ。そんなところから?と言わず付き合っていただきたい。
1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争は終わった。
「欲しがりません、勝つまでは」。勝てなかったし、戦争が終わっても欲しいものが手に入る訳じゃなし。
軍関係施設、軍需工場は軒並み爆撃を受けて壊滅状態。さらに都市にも空襲をしたので、東京も大阪も名古屋も焼け野原。
連合軍は占領政策を実施するGHQを設立。GHQは日本の再軍備を潰すべく、航空機産業を廃止し、自動車もトラックを認可した数量だけ生産に追いやってしまう。
だから庶民の闇市買出しの足は自転車がせいぜいだ。ところが、「バタバタ」、「ポンポン」と呼ばれる「エンジン付き自転車」が現われ始める。
誰が始めたのかは知らない。当時、メグロ(カワサキに吸収)は小型エンジンを単体で販売していた。また、イギリスのビリヤースのエンジンも安くたくさん輸入されてきた。輸入?そう。小型エンジンはイタリアのミナレリとかドイツのザックスとかあるけど、こいつらは多分同盟国だったんで輸出は無理だろう。フランスはあっけなく降参して戦禍が少なかったが、イギリスはドイツの爆撃を受け、第2次産業は「輸出か死か」という状態がしばらく続いていた。そのせいでビリヤースが多量に来たんじゃないかな。
戦前に自動車修理販売のアート商会浜松店を譲った本田宗一郎(敬称全て略)はピストンリングを軍にも卸してた東海精機重工をトヨタに買ってもらい、戦後ちょいと下らない発明事業をして遊んでいたが、知人から、旧日本軍の6号無線機用の発電エンジンがたくさん放ったらかしになっているのを聞いて、1946年に「バタバタ」の製作を始める。湯タンポを燃料タンクにして、うまくいったらしい。500台も作って、余り物エンジンが無くなると、いよいよ自前でエンジンを開発、「エントツエンジン」といわれる2ストのA型を発売。クランクシャフトの材料は、旧日本軍の砲弾で、これから削り出しで作ったって河島2代目社長も言ってる。
そうそう、まだ、このころは、ガソリンが買えないんだよ。国家総動員製で始まった配給制で切符が無いと買えない。石油消費規制というらしい。自動車は軒並み木炭車に改造されて走っていた。切符は戦前からある自動車所有者団体のJAAから優先されるから、なんとか「バタバタ」手にして稼いでいる庶民に届く訳がない。亜麻仁油とか松根油とかで代用。中沖さんの連載では、この時代こそ「バイクの時代」だったと言っている。エンジンを自作したホンダはともかく、適当なエンジンと自転車があれば「バタバタ」は作れるんだ。たくさん作ったらしい。「サンダイメーカー」、「ヨンダイメーカー」って言葉があって、実はこれは「カストリ雑誌」と同じで、「3台~4台作ったら止めたり倒産したりするメーカー」のことだ。でも、「俺はこれで儲ける」、「俺が作ってやる」って人が多かったんだね。
ホンダの「バタバタ」はまずまず好調で、A型から改良されてB~Dと生産されていく。まさかそのころは砲弾クランクじゃないと思うけど、わからない。とりあえず、宗一郎は好きだから、スポーティーな本格バイクの開発・生産を始める。ドリームE型、まだ2スト。ここで独創的なのは、フレームを作る鋼管パイプの品質が悪いというので、鋼板プレスで似たようなチャンネルフレームを作ったこと。実は戦前からハーレーのコピーを作っていた陸王も、国産パイプが弱いんで、肉厚の分厚いパイプを使っていたんだ。だからハーレーより重い。
そんなころ(1949年)、財務に弱い発明家な宗一郎の所に、藤沢武夫がやってきてくれる。ホンダを二人三脚で支えた彼は、技術には疎いということになっているが、実は凄い進言を何度もしてる。1951年発表のオートバイ、ドリームE型が4ストになったのは、彼が東京のスクーター事情を視察し進言しての結果で、そこから「ホンダは4スト」という独創性を発揮していく。また、「バタバタ」の販売力が弱くなったときに、より簡素で低価格なものをと進言して出来たのがエンジンを後輪に置いたカブFだ。1952年発表で、販売店を一気に増やしていく。
ちなみにドリームE型はOHVだ。1947年から始まった国産スクーター(富士重工のラビットと新三菱のシルバーピジョン)はサイドバルブの4スト。トヨタやダットサンの自動車もサイドバルブ。航空機はOHVだったのにねぇ。
ちょっと戻るけど、1949年に二輪運転免許制度が施行。それまで野放しだったのかな?また、ホンダの最初のスポーティーバイク、ドリームEが出る前年の1950年に原付と軽二輪の車両規格が制定されている。まだ原付では4ストと2ストでは排気量が違ったりするんだけど、逆にここまでが野放しなんだね。
1952年には、先に書いた、ガソリンの統制が廃止された。やっと、自由に乗れるのかな。あと、軽二輪の車検は廃止された。今もそうだね。原付は許可制(近所の警察に行って許可証をもらえばOK)になった。
1953年で、スズキがやってくる。本来スズキはトヨタ同様、織機メーカ。大儲けだったらしいが、海外視察の際、インドで50年前のイギリスの織機が動いてるのを見て、織機以外に手を広げなきゃと思い、自動車の開発はしていたが、エンジンの技術に目処が立ち、「バタバタ」のパワーフリーを発表。翌1954年には改良したダイヤモンドフリーを発売。1955年には125のオートバイ、コレダを発売。
ヤマハは?「バタバタ」は無いけど、同じく1955年からオートバイ市場に参入してくるんだが、次稿まで待ってね。
カワサキは?まだメグロとメイハツ(明石発動機)の時代だよ。メイハツは小排気量車がいろいろあるらしいけど、あんまりストーリーには絡んでこないんで、ここでは割愛。