自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
1965年、スズキもスポーツバイクの世界に25ps、クラス初の6速ミッションのT20を引っさげてやってきた。ちなみにオタク俳優、京本政樹の研究で、スズキが協賛に入った仮面ライダーの最初のサイクロン号がこいつらしい。面白いことに、YD系もT20系もキックペダルが左側なんだ。
そしてこの年、日本の行政で不思議が起こる。通称「ポツダム免許」。軽二輪免許だった人も自動二輪全てOK。何という気前のいい行政改革。何でこうなった?道路交通法の改正らしいけど。
実はまだホンダも「バタバタ」だったころの1949年の法改正で初めて自動二輪と軽二輪の運転免許ができて、ついでに古い映画でお馴染みのオート3輪用の自動三輪の免許もできた。それが、ある程度まとまった軽自動車の生産をスズキが開始(サンダイメーカーはあった/ミゼットもスバルももっと後)する1年前の1956年に、運転免許は軽二輪の試験をやめて自動二輪に一本化してるらしい。で、軽二輪、自動二輪、自動三輪の運転免許で軽自動車もOKになっていた。軽自動車だけの人には軽自動車運転免許があるんだけど。そのへんの救済措置で「ポツダム免許」になったのかも。
このハナシの最終的なオチは皆様にもそろそろ想像ついてると思う。ナナハンが出て、未熟な乗り手の事故が多発したり、暴走族が警察の手に余るほどの威力を発し社会問題化して、自動二輪の免許が中型限定までは民間の自動車学校で取得できるが、中型以上のオートバイに乗るには限定解除免許を行政の免許センターで取らなければいけないことになってしまったことだ。だから、この後の免許制度の変更は慎重になった。日本語版Wikipediaにも出ていないことだが、運輸省(当時)と警視庁との縦割り行政の狭間で軽自動車免許が問題になった。排ガス規制対応で軽自動車はそれまでの360ccから550ccまでエンジンを拡大してよいことになった。550ccでも軽自動車なんだから、取得時に軽自動車免許だけだったの人はそれでいいでしょ?いや、何かわからんかったが、国の予算を取って、軽自動車免許の人に審査だけで普通自動車免許に更新できるように計らってる。軽自動車の存続そのものが危なかったのかもしれない。免許情報がどんな風に管理されてたか知らないが、当時なら、軽自動車免許取得者から普通自動車免許に書き換えてない人を絞り込んで、はがきか何かで審査に来るように送付して・・・大変だったと思うよ。
自動二輪免許の試験車両も中型限定免許が出る前の年にやっと300~400ccと規定されたんだ。それまでは、どんなクラスの車両でやってたのか、私には想像つかない。
そうそう、1965年は、ポツダム免許と共に、戦後のベビーブーム世代、そう、高度成長経済を間近に見てきた、団塊の世代が免許習得可能になった年でもある。T20は出たばかり、次に書くA1は1年後だが、CB72やYDSの中古は出回っていることになる。学生運動の中核である大学進学率は低いが、中卒でも都会の中小企業では「金の卵」だ。そんな若者のレジャー市場があっただろう。高校生だって、自動車を買うほどのお金の無い大学生だって市場だ。子供時代には、TVで月光仮面を見ていた世代だ。一方、そろそろカミナリ族から暴走族へと変化しつつある。ただしスピードを出す方の暴走族だ。まだ、免許とマシンは自前だ。
また、行政のことだが、ポツダム免許の換わりか、ヘルメットの着用義務が。ただし、高速道路のみ。しかも罰則なし。ザル法だねこりゃ。
行政のハナシとは別に(?)カワサキもやっと1966年に250A1で参入。クラストップの31psだ。もちろん性格はザッパー。煙モクモク、加速ズドーン、曲がらない。
スズキも早速それに応じるかのようにT21に変更。30.5ps。同年、ホンダはスーパーカブの対米輸入を中止。小型バイクのVWビートルという風な普遍性を狙ったが、外れて販売がかなり落ち込んだらしい。
もちろんスズキもカワサキも輸出をした。T21の輸出名は後にオフロード車に付けられる「ハスラー」、A1の輸出名は「サムライ」だ。もちろんアメリカでは人気出てるぞ。
そして1967年だ。この年はとても重要。車検以外は軽二輪と自動二輪が性能/価格差以外は無くなっている。250のボアアップで300チョコチョコでお茶を濁していたメーカーが、それ以上を求め始める。どんな順番かはわからないが、並べていこう。
スズキはモーターショーに「スズキファイブ」を展示。500ccの2気筒だ。当時は空冷ツインで500ccは放熱が難しいといわれていた時代。(無かったわけではない)
カワカキはA1のボアアップで350A7を出した。A1のエンジンは、ボアアップの余裕があったということだ。悪い言い方だと、「駄肉がある」なんだが、A1が遅かった訳ではないので、この方法が他のメーカーに影響したのかもしれない。45.5psとハイパワー。輸出名は「アベンジャー(復讐者)」。敗戦国ネーミングじゃないだろうね。
ヤマハはYD系はYMレベルまでしかボアアップできなかったので、350専用マシン、R1を発売。完全にYD系より大型車だったそうだ。36psはじゃじゃ馬A7より低いが、完成度はたぶん高い。三億円事件に使われた偽装白バイもこのマシン。ポツダム免許でR1を買った中沖さんは、「白バイは4ストだから、最初から2スト乗りを洗えば犯人が捕まったろうに」って言ってた。本人がこっそり調べられていたのはずいぶん後のことなんだって。で、250の方はDS5Eという12Vセル付きになった。頑張って29.5psだけどセルは不人気だったらしい。305ccのYM1がM2に進化して31psのときは付いてないんだから。M2とR1のラップ期間は何処にも資料が無いのでわからない。
そしてホンダは遂に、C70から使い続けた、イタリアのラベルダも真似た、フレーム強度部材となる前傾2気筒エンジンを止め、直立した2気筒でCB350、CB250を同時発売した。カワサキA系と同じく、250と350の設計が同じ。というより、これは350を縮小した250と言っていいだろう。
日本では行政が免許制度を変えて250のメリットが維持費以外薄くなった。アメリカには、オートバイの免許に排気量制限が無い。じゃあ速い方がいいじゃないか。
排気量クラス分けの250、350っていうのはヨーロッパでは意味があった。今の日本みたいに、若年層は350までとか、維持費が安いのは250までとか。
だから、今のMotoGPになる前のWGPだったころ、250クラス、350クラスがあった。350クラスは1988年で先に終了してるけど、1977年には在日韓国人の片山敬済が年間チャンピオンに輝いている。250クラスは原田哲也、故・加藤大治郎、青山博一が年間チャンピオンになってるよね。
そんな意味で、350クラスでマシンを開発して250はスケールダウンでいけるように、というのは大量生産で稼がなければならない当時のメーカーの当然の判断なんだろうな。CB72からCB250に変わってホンダファンは悲しんだって言うから。
1968年には、メグロやホスク以外の大型車が(もうそれらは250クラスの攻勢で滅びてるんだが)。カワサキは世界最速を目指して500SSマッハⅢ(H1)が発売。60psで加速はザッパー、曲がらない止まらない後家作り。でも大人気。フランスの人気は凄かったらしい(似た様なモデルが作られている)。スズキは参考出品していたT500を発売。47psは同排気量のマッハに比べると小さく思うかもしれないが、T500は中型バイク並みに小さくて軽いんだ。だから人気。マッハⅢをベースにしたレーサーH1Rはたいした成績を残していないが、T500ベースのタイタンレーサーは結構いろんなところで勝っている。
1969年はもっと凄いことが起きてくるのだが、それは次稿にしよう。250ccで磨かれた日本のスポーツバイクが上も見始めた。