自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
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次の日
国際スポーツカー A 5月4日 12台 30周
1 |
ロータス23 |
ピーター・ウォー |
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2 |
ロータス23 |
マイケル・ナイト |
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3 |
ロータス23 |
アーサー・オーウェン |
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4 |
フェラーリ250GTベルリネッタ |
ピエール・デュメイ |
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5 |
カレラ2 |
フシュケ・フォン・ハンシュタイン |
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6 |
アストンマーチンDB4ザガード |
ジョゼ・ロジンスキー |
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7 |
ジャガーE |
R・M・バクスター |
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8 |
ジャガーDタイプ |
フランシス・フランシス |
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9 |
TR4 |
A・ベイトマン |
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10 |
ポルシェ クーペS75 |
P・セヴェニー |
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11 |
ポルシェ・スーパー90 |
H・リー |
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12 |
ロータス11 |
ロバート・リー |
1周リタイヤ |
予選12位 |
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ロータススーバーセブン |
A・ドン・ベネット |
出走せず |
動かず |
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あまり昨日と換わらない結果(マシン差も腕の差も変わらないから)だけど、ハンシュタイン頑張ってロジンスキーに抜かれなかったな。フランシスが11位から8位に、ベイトマンは10位から9位にアップ。沈んだのはセヴェニーとH・リーのポルシェの2人。ハンシュタインの走りに圧倒されたか?
この2日間の国際レースで観客も学んだろう。
1. ツーリングカーよりスポーツカーが速いが、その上にレーシングカーという異次元のものがいる
2. ポルシェはやっぱり速いが、速く走らせるには異次元のテクニックがいる。
3. この世にはフェラーリという乗り物がある。
それだけでもいい実りではないか。第3回からは、とうとう日本メーカーからもレーシングカーが出てくるし、第4回からはポルシェのレーシングカーまで出てくるのだ。(滝進太郎の906。式場壮吉の904は一応GTカー)これで、日本人に、ロータス、ポルシェ、フェラーリの認識を高められた。私は知っているが、1970年代の笑っちゃう少女マンガで、彼氏の職業がレーシングドライバーだったりすることはあって、よく、ポルシェやロータスに乗っている設定だったよ。
重役や会長の年寄りドライバーのその後は悠々自適だろうし、よくわからないから、若かったレーサーのその後を。
優勝のピーター・ウォーはご存知の方も多かろう。彼は概ねロータスで仕事していた。セールス・エンジニアからメカニック。他でも、ウルフやフェッティパルディのチームマネージャーをしたがロータスに復帰。そしてコーリン・チャプマン死後はロータスF1チームのチーム監督をしていた。中島悟とよく会話してたよね。
2位のマイケル・ナイトはその後もレースを続けたが、最終的に実家のウィンフィールド・レーシングスクールを継がず、レース用ホイールメーカー、「ダイマグ」を起業する。現在、ほとんどのF1がダイマグ・ホイールだ。他のレースマシンもね。オートバイレースも同様。市販ホイールもあるので、私のバイクに付けたいぞ(高い!)。
ロジンスキーは元々自動車ジャーナリズムをやっていたそうだが、この後もスーパーマシンやレーシングマシンの本格試乗も出来る異色のジャーナリストとして活躍。
フランシスは第2回JAFトロフィーという日本のフォーミュラー初のレースで、ロータス22を駆り3位に入賞している。
なんと、走る重役、ハンシュタインはその後もヨーロッパの耐久レースに出てたらしいし、FISAの重鎮になった。
そんな凄くなる人も参加していた第1回日本グランプリ。一応、考証はここまでだ。お付き合いいただき、ありがとう。最後にもう一回、資料本を。
桂木洋二 日本モータースポーツ史 グランプリ出版 1983年
GP企画センター編 サーキットの夢と栄光 グランプリ出版 1989年
(上記とほぼ同じ)
桂木洋二 激闘 '60年代の日本グランプリ グランプリ出版 1995年
井出耕也 むかし、狼が走った 双葉社 2000年
高木信哉 日本グランプリレース 三一書房 2003年
(発行は東京キララ社というJAZZ関連の出版社で、誤字、校正ミスがとても多い)
終り
いったい何だったのだろうか?あの80年代からの狂乱のバイクブームというやつは。
今ある、その辺の書籍をさらってみても、「こんなモデルがどんどん発表されていました」、ばかりで、何も回答にならない。
HY戦争?あぁ、確かにあったさ。でもあれは、原付ファミリーバイクのハナシが主なんだ。何だってスポーツバイクまで、乱開発・乱発売になっていったんだい?
原因は多々ある。日本の市場と意識、主な輸出先のアメリカの動向。その辺はYとHだけじゃなく、KもSも深く関わってくる。
「市場と意識」って書いてしまったけど、これも重要なハナシで、市場の無いところを掘り起こすこともあれば、潜在市場が何求めてるか、とか、売れる製品には意味がある。そして他社が追随するんだ。
市場としては、高度経済成長のことがある。また、それによって生まれた高度消費社会の爛熟がある。戦後ベビーブームからなる団塊もいる。そしてバブル経済。
メーカーは戦前にあったものは全て絶え、戦後にオートバイを作り始めたメーカーに取って代わった。
エラソーに書いてるけど、私だって生き字引のような人間じゃない。たまたま、あの時代に昔話しに興味を持っただけさ。
みんなに目に見えて爆発する少し前(にもブームの片鱗は訪れてるんだが)の1978年から2年間、浅間ミーティングクラブの発起人の故・中沖満さんの連載がバイク雑誌で始まった(物書きとしては処女作)。戦後の日本のスクーターやオートバイなんかに関しての自叙伝だ。たまたま私はこれを読んでいて、とても楽しかった。とはいえ、これだけじゃ資料に薄い。
各メーカのサイトでコレクションを覗いても、成功車やエポックメーキングなものはあっても、地味なものとかは全然詳しくない。
小関和夫さんや大久保力さんの書籍は結構役にたったが、何故、あの狂乱を迎えたのかが書かれていない。
仕方ない、私が知ってる限りのことを、わかりやすく書いてみよう。
これを書き出す前に、必要なモデルの発表年と社会の動向が(自分に)わかりやすいように年表を作ってみたんだけども、メーカーサイトは必要モデルが全然出てないので、昔買ったエイチムックと図書館で見つけたネコ・パブリッシングのモデルブックを参考にしたが、エイチはモデル年が合わないこともあるし、ネコに至っては、解説誤記だらけだった。それでも無いよりマシ、と思い、年表を駆使して、いきなり戦後から始めてみたいと思う。
あ、本当は、「自動二輪」は「モーターサイクル」であって、「オートバイ」ってのは和製英語で本当は好きじゃないんだけど、わかりやすいように、ここでは「オートバイ」、「バイク」の表記でいくからね。
始めは終戦焼け後からだ。そんなところから?と言わず付き合っていただきたい。