自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
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では、ツーリングカー(セダン系)の小さい方の参加クラス順に記述していこう。6クラス。
CⅠツーリングカーレース 400cc以下7ラップ 13台 3日の1戦目
スバル360が7台、スズライトが4台 マツダ360クーペが2台だ。
1 |
望月修 |
スズライト |
契約2輪レーサー。2年後三菱ワークスへ |
2 |
藤田晴久 |
スズライト |
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3 |
村岡三郎 |
スバル360 |
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4 |
袴田友三郎 |
スズライト |
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5 |
小林章尾 |
スバル360 |
|
6 |
渡辺輝雄 |
スバル360 |
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望月は浅間時代ヤマハで3位。その後スズキと契約。さらにその後三菱ワークスへ。藤田と袴田はわからない。多分社内だろう。この1回しか出場していない。スバル勢は社内か上州オートクラブか。これのみか第2回に同じスバル出場。JAFのサイトのリザルトでの結果だ。
CⅡツーリングカーレース 400cc~700cc9ラップ 15台 4日の1戦目
トヨタパプリカが8台、三菱500が3台。三菱コルト600が1台、拡大版スバル450が3台、マツダキャロルの大きいのが1台。
1 |
深谷文郎 |
パブリカ |
栃木ディーラーチーム |
2 |
前川義弘 |
パブリカ |
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3 |
細谷四方洋 |
パブリカ |
広島ディーラーチーム。自工ワークスへ |
4 |
小谷彰 |
パブリカ |
|
5 |
R.ベイツ |
パブリカ |
|
6 |
牧野俊彦 |
パブリカ |
|
パブリカ圧勝。判ったのは深谷と細谷だけ。深谷はレース戦績は無いが、2輪で遊んでる。その友達が栃木のディーラーチームから出る予定が親族危篤で換わりにでたそうだ。第3回日本グランプリまで出場している。細谷は広島のディーラーからエントリー。すぐに自工のワークスに入り、エンジンのテスト走行に重宝がられた。Can-Am出場予定のトヨタ7の開発まで走っていた。セリカのデビューも戦っている。トヨタあとのエントリーはこれ1回の出場のみ。ベイツってのは軍人さんだろう。なにしろこのクラス、フルサイズのエンジンを持っていたのはパブリカだけなので、トヨタはライバル不在と言っていいだろう。7位もパブリカで、8位がやっと三菱500。トップと2ラップ差だって。もっと遅いここにリザルトのないスバル450には、9位に2輪レース出身でジャーナリスト、後年様々なレースに出て、国会議員になった大久保力や10位に上州オートクラブ代表でスバルで出場し続ける小関典幸がいる。経験の無い富士重工は、速いドライバーを勝ち目の薄い、軽自動車のこのクラスにもってきてしまったと、大久保力が語るブログに書いてあるよ。
CⅢ ツーリングカーレース 700cc~1000cc10ラップ 15台 4日の2戦目
日野コンテッサが7台で、105マイルクラブが中心と言われている。先に述べたように、ミッションを4速に改造したマシンも作ったが、それはBⅠ、国内スポーツカー 1300cc以下に入れられてしまうので、ノーマルに近いらしい。ラジオまで付いたのがあったと記してある。ドライバーは105マイルクラブのWエントリーか2軍か、かな。日野はプライベートの日野ルノーも2台。日産ブルーバードは古いっていうからプライベーター3台。DKWが2台。井口のぼるのDKW1000スポーツと津々見友彦の古い1955年製DKW900。V・ローズという外人(国籍不明)がルノー・ドーフィン・ゴルティーニで1台。
1 |
立原義次 |
コンテッサ |
105マイルクラブ |
2 |
井口のぼる |
DKW1000(スポーツ) |
|
3 |
V・ローズ |
ルノー・ドーフィン |
|
4 |
小島常男 |
コンテッサ |
105マイルクラブ |
5 |
津々見友彦 |
DKW900 |
1966~68トヨタワークス。その後も |
6 |
山西喜三夫 |
コンテッサ |
|
立原はBⅠコンテッサの2台のうち1台を2位に入賞させたから、たぶん105クラブ。小島は105クラブと書いてあった。山西もBⅠで4速コンテッサで出ているから105クラブだろう。小島以外の彼らはコンテッサで活動を続け、やがて外車やストックカーへ。同じマシンでBⅠクラスにWエントリーする井口はわからないが、DKWは2ストの前輪駆動なので、かなり特異なマシン。輸入販売店関係か?このあと第2回もDKWで出場、その後日産ワークス入りしながら、フィアットでストックカーレースへ。強力なゴルティーニ・チューンのルノー・ドーフィンを持ち込んだローズは軍人さんか?先にも書いた津々見友彦はその後もトヨタワークス、ニッサンワークス、有力レーシングチームとレース界にとどまり、高橋国光や長谷見昌弘、星野一義、鮒子田寛らと同じく1990年までも一線にいた。私が個人的に好きだったのは、1970年代後半の富士GCシリーズだ。他の選手は、最新のマーチやシェヴェロンをそろえていた。津々見だけは、資金難か古いローラT212を使用していた。彼はこう言っていた。「俺はまだこのマシンのポテンシャルを出し切っていない」カッコイイじゃないか。
DKW井口とコンテッサ
コンテッサとDKW津々見
CⅣ ツーリングカーレース 1000cc~1300cc12ラップ 8台 3日の2戦目
小さいCⅢよりも、もっと小さいCⅡよりもラップが遅かったという退屈レースと誤記だらけ資料本にあるが、CⅡ、CⅢと日にちが違うんだが。出場はVWのカブト虫が6台、古ぼけブルーバードが2台。
1 |
鈴木義一 |
VW |
本田契約2輪レーサー(プライベート出場) |
2 |
竹内達夫 |
VW |
|
3 |
市瀬正至 |
VW |
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4 |
永井賢一 |
VW |
第3回日本GPでベレットでバンクに死す。 |
5 |
井原吉春 |
VW |
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6 |
吉田安政 |
VW |
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リザルトVWだらけ。素人愛好家だろう。鈴木義一というどこにでもある名前は、経済学者ではなく、2輪の浅間レースやマン島レースに出ていた人だと判明した(ホンダワークスで自動車レースに出たいので、プライベートで出場)。その後、S600で海外ラリーでユーゴスラビアで事故死している。永井はその後1965年からいすゞでワークスでレースをしていたが、富士スピードウェイに舞台を移した第3回日本グランプリの30度バンクで飛び出し、亡くなっている。当時大学生。
鈴木義一
ツーリングカーはあと2クラス。では次稿。
CⅤ ツーリングカーレース 1300cc~1600cc15ラップ 14台
トヨタワークス含むコロナの6台と、いすゞと外部で仕立てたヒルマン・ミンクス7台、英国のヴォクスホールVX4/90が1台だ。たぶん4/90ってのは4速と90psかと思ったら72psだった。シリーズ名はヴィクターFBとなる。コロナはコラムシフト3速のまま。ミンクスはフロアシフトだけど、3速かもしれない。予選第1位はヴォクスホールの酒井荘一。その後、1966年の鈴鹿1000kmレースでもヴォクスホール・ヴィヴァで出場。ディーラーか?
1 |
式場壮吉 |
コロナ |
契約ドライバー |
2 |
立石宜 |
コロナ |
|
3 |
松永正義 |
コロナ |
|
4 |
荒尾正和 |
ヒルマン |
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5 |
浅岡重輝 |
ヒルマン |
SCCN |
6 |
滝口憲亮 |
ヒルマン |
|
これが、Wikipediaにも、資料本にも残されたリザルトだが、誤記だらけの資料本だけ見てきたように違う。2番目にフィニッシュしたのは予選第1位のヴォクスホール/酒井だそうだ。4速のヴォクスホールをなんとか抑えた式場のテクニック勝ちだと。JAFサイトでは、2番目フィニッシュし、結果に「dq」とあるから失格だ。走路妨害を取られたらしい。式場はご存知のように第2回日本グランプリで、トヨタが出ないクラスで個人でポルシェ904を持ち込み、プリンスのスカイラインGTの独走を止めて優勝した人。少し抜かれたんでスカイラインが有名になったけど。レース前からポルシェで練習走行していたボンボンで、社員じゃないが契約ドライバーになった。第2回日本グランプリ後、ピエロ・タルッフィーにコーチを受けたり、イギリスのジム・ラッセルレーシングスクール(トヨタ持ち)で、レースに対する考えを改め、レース活動は止めにした。いすゞヒルマン・ミンクスの連中はSCCNの連中と思われ、浅岡重輝はその後のいすゞワークスの中心になる人だ。
ヴォクスホールvsコロナvsヒルマン
式場壮吉コロナ
CⅥ ツーリングカーレース 1600cc~2000cc20ラップ 17台
多賀らクラウン4台は全てワークスカー多賀以外は自販が探してきた普通の飛ばしやさんだろう。スウィッシャーらベレル3台も全てワークスカー。プリンスのスカイラインが3台、グロリアが3台あるのは、体制はワークスだけど、R・ジョーンズと生沢徹以外は社内テストドライバーだろう。日産のセドリック3台は日産が持って来ただけのマシンだろう。R・ダンハムもいる。どうしてこのクラスでプライベートかわからないが。あと外車が、吉田隆郎の持ち込んだヨーロッパのフォード・タウナス17MTS。(どうも、タウナスと言えば大小を問わず西ドイツフォードの乗用車らしい)。17は1.7リッターを示し、Mはシリーズ名、TSはわからないがツーリング・スポーツか?初代のP2かP3が、見てみないと微妙なところだ。
1 |
多賀弘明 |
クラウン |
契約ドライバー |
2 |
K・スウィッシャー |
ベレル |
|
3 |
吉田隆郎 |
タウヌス17MTS |
|
4 |
ドン・ニコルズ |
ベレル |
R381のムーンエンジンの人 |
5 |
戸国盛弘 |
セドリック |
|
6 |
河島勇 |
クラウン |
|
多賀は前稿のように、大学自動車部出身で、トヨタ自販が応募したドライバーの中から、式場同様に契約金で専属になったドライバー。しばらくワークスにいて、その後TMSC(トヨタモータースポーツクラブ)の会長になっている。K・スイッシャーは米空軍少佐で朝鮮戦争でジェット戦闘機のパイロットだが、本国でもアマチュアレースで鳴らしていた人らしい。その後もベレルでマカオGPに出場し、トラブルがでたが、「チームのために」完走を心がけ、チーム賞を取っている。もちろん、作戦が終わったら、アメリカに戻った。外車を持ち込んだ吉田隆郎はわからないが外車が手に入る人だ。第2回には、戦闘力の高いロータス・コルティナをエントリーしている。それ以降はダイハツのワークスで活動した。ドン・ニコルズは軍人ではないが、軍人の需要目当てか、これからの日本の市場目当てか、レース用部品等を販売に日本に一時的に居を構えた在日米人。アメリカの意向で、富士スピードウェイ創設に初期に関わり、日産のプロトタイプレーシングカーR381のエンジンが間に合わないというときにシボレーのエンジンを輸入した。ローラでも同じレースにR・クラークの変名で出ている。のちにアメリカに戻り、シャドウ・レーシングを立ち上げ、ペタンコなCan-Amマシンでレース。イギリスに本部を移し、F1を始める。この辺のことはWikipediaのシャドー・レーシングに出ているよ。
多賀弘明クラウン
生沢徹スカイライン旧
R・W・ジョーンズ スカイライン
R・レイク グロリア
若宮徹グロリア
D・ニコルズ ベレル
リタイヤしてしまった生沢徹は2輪で15歳のとき、初期の浅間の第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースでオオツキ・ダンディーという原付でギャルソンMCCから出場して、敢闘賞を受賞している。でも基本ボンボンで式場たちと同じ東京オトキチクラブというオートバイのスピードクラブにいた。その後はトーハツのワークスでランペットで戦ったり、ホンダワークスで戦っていた。しかし、若い長谷見昌弘に練習で抜かれて4輪へ転向を決意。もちろんこのあとスカイラインGT神話やプリンスR380対ポルシェ906のあと単身ヨーロッパF3/F2に参加し、日本のレーサーの個人の海外遠征のパイオニアだ、日本に帰ってきても富士GCとかで魅せてくれた。でも、もう日本のモータージャーナリズムには発言しないと決めている。
ツーリングカーはこんな感じだ。では次稿。