自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
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どうしてこの文章を始める気になったのか。それは、第1回日本グランプリの記述等があまりに少なくて、「出場者ってどこの誰だい?」と思ったことである。だって、まだ自動車は庶民には高嶺の花で、マイカーブームの前、サニーもカローラもまだ開発前で、欲しくても手に届きにくいものは3C、「カー、クーラー。カラーテレビ」といわれるころなのだもの。
第2回以降の話はもう多く伝わっている。第1回で負けたプリンスのスカイラインGT投入とポルシェ904との決戦。プリンスR380とポルシェ906の決戦。生沢徹や式場壮吉や滝進太郎。でも第1回は、誰が速いのかわからないところからのスタートのはずだ。どうやって出場したのか。
第1戦でトヨタが出場クラス全てに優勝して、それを宣伝に使ったため、第2回以降はメーカー間での争いがヒートアップしている。だからこそ第1回とは?
海外からの招待選手がB級であったとも言われている。本当か?誰が招待したんだ?
レースリザルトは現在はWikipediaにも出ている。JAFサイトでも全て見れるその後の有名選手以外、誰やねんこいつ?
調べていくといろいろ面白かった。そもそも、主催がJAFじゃない。レース開始はJAFが生まれて2ヵ月後だ。会員もほとんどいない。国際機構のFIAから認可されているユーザー団体はJAAといって戦前からあったが、その実態は、日中戦争で国家総動員法でガソリンが配給制になったため、優先的に配給を廻してもらうための組織で、戦後しばらくしてガソリン統制が解除されたら有名無実の団体だった。
一方、鈴鹿サーキットはレースを開催すべく、FIAやRACレース規定の細かいことを調査するのにJASAをサーキット完成の1961年に発足。
天下り団体でもあるJAFはロードサービスの一本化を狙って作られた。それまでのロードサービスは全て各ディーラーの担当だった。これを会員制にして全て引き受けようというものだ。第1回には会員が少ないし、レースについても学んでいない。
一応、3者での話し合いがあり、FIAにもお伺いを立てた。FIAは「初回はJAAが研究を続けているJASAに委ねて主催し、2回目以降、JAAを引き継いだ形になるJAFが主催すればいい」と真っ当な回答をした。JASAの人員をJAFに吸収してもいいしね。
第1回の結果は、準備していたトヨタの一方的な勝利となっているが、この点も不思議に感じていた。何を準備していたのだろう。まだ、ヤマハとトヨタ2000GTを作る前だ。その後もスポーツエンジンをヤマハに丸投げするトヨタにそんなチューニング技術があったとは思えない。プリンスが自工会申し合わせのまま、出場車に手を加えなかったのはスカイラインGT伝説で有名だが、他のチームはどうなのか。また、招待レーサーでない外車の出場車は何者だ?
オートバイの黎明期のレーサーの素性はだいたいわかっている。概ねボンボンだ。まだ日本のオートバイが未熟だったころから、外車のスポーツバイクを飛ばしていた連中だ。もちろん後年4輪のレーサーにシフトしてくる。有名どころでは、高橋国光。彼は浅間レースでイギリスのBSA350に乗り、先に出た500クラスも抜き去って優勝した。ホンダ2輪のWGPでは最初の優勝をして日の丸を揚げた。もちろん才能はあったにせよ、まだヤマハがオートバイを出したばかりのときにBSAを乗り回しているのはボンボン以外の何者でもない。
「オーナードライバー」、死語だ。「バスの運転手」「トラックの運転手」「タクシーの運転手」。運転手は職業で、運転する車は自分のモノではない。最近はメイドさんや執事がラノベに登場してるけど、同様に「○○さんちの運転手」という職業もある。「オーナードライバー」はそうじゃなくて、「自分のクルマを運転する人」だ。思いのままに運転するなら、「運転手」じゃなくて、自分の好きになるクルマがなければ。だから、最初のレーサーたちは自分の車を運転してスピードを楽しんでいた人々、となる。そんなのボンボン以外いない。もちろん2輪レーサー上がりもいるだろうが、ボンボン率は高い。
戦前の河川敷レースでは、「××さんちのクルマ」を改造して××さんの肝いりで「××さんちの運転手」が出場していた。勝って誇らしいのはレーサーではなくチームだ。「あそこんちには勝ったぞ」。
まあ、ヨーロッパの最初のころのグランプリ(もちろん第1次大戦前)も、優勝したルノーのシスって人は、ルノーの工場長で、社長の命令で出場して、ピットで自分で修理してたんだけど。もちろん工場長は大量生産じゃない頃の生産車のテストドライブもやっていたからね。
資料本で、レーサーになる人は「暴走族・暴力団、ボンボン、2輪レーサー上がり、大学自動車クラブ出身、テストドライバー」と挙げられていた。暴走族と暴力団は威力誇示のためのもので、速くはないからすぐに振るい落とされると。たしかにちょっと暴走系のクラブもある。後の稿に出てくる、日野のコンテッサでレースして、のちにストックカーのレースを主催するNAC(日本オートクラブ)に変更していく105マイルクラブだ。第3回日本グランプリで個人エントリーのポルシェ906(レンタル)でプリンスR380と戦った滝進太郎がNACに参加していたという。資料本を少し引用してみよう。
「―--日本の戦後の荒廃の中で生まれた無頼の群れが、あの頃は、いまよりもずっと表の社会と近いところにいたのである。
滝も参加した有力クラブの1つ、NACも、そんな匂いを濃厚に漂わせていた。NACはメーカー系のクラブ(注;TMSC、NSCC等)ではなくて、プライベーターのクラブだった。さらにさかのぼると、105マイルクラブというのがNACの前身だった。このクラブは第1回日本グランプリよりも前の1962年に創設されている。
105マイルクラブは少し荒っぽいところのあるクラブだった。
入会希望者はあるテストをパスしなければならなかった。第2京浜を時速105マイル以上で飛ばして見せるというテストだ。キロに直すと時速168キロだ。新人の車の助手席に会員が乗り込み、ほんとうに105マイル以上のスピードを出したかどうかチェックした。当時のクルマでそれだけのスピードを出すのはたいへんだったが、スピード違反することを入会の条件に掲げたクラブは、105クラブぐらいのものだったろう。その105マイルがそのままクラブの名前になった。(注;第2京浜はほぼ直線の舗装路だが当時の国産車、ヨーロッパの小型スポーツカーでは無理。大型スポーツカーやアメ車なら可能)
NACになってからも105マイルクラブの雰囲気は濃厚に残っていた。たとえば、会員にWという男がいた。Wは横浜の沖仲仕を仕切っているといわれていた。NACが主催するレースではこの男がパドック管理委員長になった。
『あの男がパドック管理委員長になると、横浜から自分のところの若い者を連れてきてパドックを整理させるんだけど、この連中が荒っぽくてさ、何かあるとすぐ殴っちゃう。だから、NACのレースでは、もう、パドックなんか整然としててね』
と滝は語るのだ。
また、Kという男はある大手ゼネコンの用心棒をしているといわれていた。しばらく姿を見なかったと思って声をかけると、ニヤッと笑って、『ああ、ちょっとピンに用があって、向こうに行ってたもんでよお』などと答えたりしたものだ。ピンというのはフィリピンのことだ。この他に、ゴルフ場をめぐる詐欺で親子揃って刑務所にぶち込まれたという話のある男もいた。
当時、滝は夫人と結婚前だったが、夫人はそんなクラブ員たちを見て、滝のことも『この人、レーシングドライバーなんて言っているけど、ほんとうはヤクザじゃないのかしら』と本気で疑っていたそうだ。
NACはアメリカンスタイルのストックカーレースを主催することも多かった。
これはSという男が中心になった。Sはプロモーター感覚にあふれた男だった。それも、最近のスマートなプロモーターでなく、いんちきがばれてしまって、札束を詰めこんだ鞄を小脇に抱えて脱兎のごとく逃げていく姿が似合いそうな、そんな昔風の興行師だった。
Sはレース前に何人かのドライバーを集めて、1万円札を渡しながらこんなふうに頼んだ。
『悪いけどさあ、スタートしてから2/3ぐらいまでは、これもんで抜きつ抜かれつという格好でやってくんないかな。で、2/3を過ぎたら、スタートラインのところで白旗をクロスするからさ、そこからが本チャンのレースということで。な、頼むよ』
2/3を過ぎれば、レースが成立したことになり、観客に入場料を返さなくてもすむからだ。また、話題作りのために、スポーツ新聞や雑誌の記者を集めて、『今日はちょっとクルマを燃やしますから』と約束し、ドライバーに頼んで、レースの途中でレーシングカーに火をつけさせたという伝説も残っている。」 井出耕也 著 「むかし、狼が走った」 双葉社 2000年6月
ちょっと怖いね。なんにしても、105マイルクラブはアメ車で直線飛ばしてた連中だろう。英国のスポーツカー、ビッグ・ヒーレー100(2.6リッター)でさえ、やっと100マイルが望めたころなのだし。アメ車は小さくて5.5リッター、大きければ7リッターもあるからね。
暴力/暴走系はここまで。ボンボンは走るクルマを買って乗ることが出来る。式場壮吉は日本オトキチクラブで赤木圭一郎や夏木洋介とオートバイで遊んでいたが、鈴鹿サーキットが出来ると、オートバイから自動車に転じて、SCCJにも顔を出し、ポルシェを買って練習走行していた。2輪レーサー上がりはおわかりだろう。まだ4輪で出せないスピードを既に知っている。勝負の世界を知っている。ギャンブルレーサー上がりだって同等だ。マシンコントロールのカンもわかっている。大学自動車クラブというのは、まだ自動車が庶民の手に届かなかったころ、大学の部備品予算や部員で持ち寄りの金で自動車を1台くらい買って、部員みんなで練習していた連中だ。一応、ラリーやジムカーナが学生単位で行われている。テストドライバーはおわかりだろうが、当時は高速道路もなく、鈴鹿サーキットが一番スピード出せたところで、メーカーテストはどんな規模のテストコースで高速テストをしていたのかさっぱりわからない。だから能力は逆に未知数だ。
調べてもそんなに多くはわからなかった。とはいえ、バラバラの断片をかなり繋ぐことは出来たと思う。
ちょっと各記事が長めだけど、肩の力を抜いて、楽に読んで下さい。
参考資料
桂木洋二 日本モータースポーツ史 グランプリ出版 1983年
GP企画センター編 サーキットの夢と栄光 グランプリ出版 1989年
(上記とほぼ同じ)
桂木洋二 激闘 '60年代の日本グランプリ グランプリ出版 1995年
井出耕也 むかし、狼が走った 双葉社 2000年
高木信哉 日本グランプリレース 三一書房 2003年
(発行は東京キララ社というJAZZ関連の出版社で、誤字、校正ミスがとても多い)
本田宗一郎が鈴鹿サーキットを作った理由は3つあるらしい。
1. カミナリ族が社会問題化してきたので、走れる場所を与えたい。
(彼自身「カミナリ族の親分だ」と発言)
2. オートバイだけでなく、自動車メーカーになりたい。その競う場所が欲しい。
(通産省は各自動車メーカーを合併させ海外に対し競争力をつけるつもりだった;そうなるとホンダが後発で出る機会が無くなる)
3. 自動車メーカーになるに先立って、F1に出場するつもりだったから。テストもしたい。
こんなところだ。完成後、デモランや2輪レースはやった。「本当は俺じゃなく、トヨタが作ればいいんだよ」というのは皮肉ではなく、これから高速の時代で負かせてやるという自信の表れだろう。
そして、第1回日本グランプリ開催となる。前稿に書いたように、JASAが主催だ。JASAは鈴鹿サーキット傘下、つまりホンダ傘下だから、まだ自動車を持っていないホンダがレースを主催したようなもんか。
ホンダが主催してるんだから、他のメーカーの反応はさほどではない。完全無視もあれば、重視もある。その温度差をちょっと書いてみよう。
その前に、自工会としては、特に表立ってレース車両は作らず、という方針を出していた。また、完全無視以外は、「よそが出るならうちも出ないわけにはいくまい」くらいが多いかもしれない。本来はレースはメーカーのものではなく、レーサーと観客のものなんだけどね。
トヨタが事前準備した理由は、レースの話題が販売店の客から、トヨタ自販にフィードバックされたことから。当時はトヨタは、自動車メーカーであるトヨタ自工と、販売商社のトヨタ自販に分かれていて、自販側が、レースに腰を入れるべきと自工を押したようだ。これで、自工は特製マシンの準備を始める。自販は販売店などから速そうなドライバーを推薦してもらう。それ以外にもサーチしてた。先稿でも書いたが、コロナを優勝させる式場壮吉は鈴鹿サーキットでポルシェで練習走行しているのを見つけて契約した。ただし式場は実業家を継がなければならないので、社員のような縛りではない。クラウンを優勝させた多賀弘明は大学の自動車部出身だそうだ。彼も速かったらしく、契約した。他のドライバーは、あくまで「乗せてやる」で、契約ではないらしい。マシンやチューニングについては別記。
トヨタ以外で本気で準備が本気ギラギラだったのは軽自動車のスズキだ。理由は二つある。
1.既にヨーロッパでホンダに次いで2輪のWGPの小排気量クラスで成果を挙げており、販売に対するレースの重要性は理解している。
2.ライバルのスバル360に対して重たいスズライトである。(385kg,16psに対し500kg,20ps)
ホンダはまだ自動車は作りたくとも作れてないから、数少ないレース経験のある(オートバイだけど)メーカーだった。しかし理想を目指したFFにしたことが重量増加を招いていた。もちろん、2輪のレース技術者とスズライトのエンジンチューニングを始めた。ドライバーは社内の2輪の開発ライダーをそのまま仕立てあげた。
実はもう1つレース経験のあったのは三菱だ。正確にはこのころは新三菱重工。経験といっても、前年のマカオグランプリに三菱500とコルト600を持って行き、クラス優勝をしている。日本グランプリには同じクルマ。貸し出した外川一雄ら3名というのは、マカオのときと同じかどうかは不明。さほどの関心ではないみたい。
関心がある、というより好奇心みたいだったのが、いすゞ。「宣伝効果というより、レースそのものへの関心が強く、トヨタとは取組み姿勢が違う」と資料本に。ディーラーらしい、「やまと自動車の竹田正隆サービス部長が関心を持ち、いすゞの実験部を中心にレーシングチームをつくる」とある。ノックダウンから始まったヒルマン・ミンクスは、本家の英国にはチューニングパーツがあり、また日本はコラムシフトだったが、フロアシフトへの変更パーツもあった。これらは伊藤忠自動車が販売していたので、それを付けた。他にもスポーツキットがあっただろうと思われる。ベレルには何をしたのか不明だが、ヒルマンは参考にはなったろう。ドライバー選択は、グランプリ前から行われていた米軍飛行場イベントで速いメンバーを立てた。TSCCメンバーのキース・スウィッシャー米空軍少佐、デイル・ソーヤ米空軍中尉、SCCJ(日本スポーツカークラブ)の浅岡重輝、生沢徹にも声をかけたが先にプリンスに売り込んでいたので、レース部品卸しで、富士スピードウェイの設立で暗躍する在日米人のドン・ニコルズを採用。
富士重工は全く関心が無かったのではないだろう。むしろスズキを知っているから、「ライバル不在だ」と思っていたのかもしれない。「絶対勝てる、勝つに決まっていると自信があり、スバルの地上高を若干低くし、タイヤの空気圧を20%アップさせた程度であった」と資料本にある。
もう1つの軽自動車メーカー、マツダは完全に無関心。このころはVツインの360クーペと4気筒のキャロルがあったが、Vツインは軽3輪のエンジンだし、キャロルの4気筒はスピードを出すためのマルチシリンダーではなかった。しかも、本社実験はバンケル・ロータリーエンジンの開発で大わらわな時期だ。ユーザーで出たい人が出ればいい、という考えか(実際、勝てないが出ている)。
マツダがロータリーで大わらわだったように、日産はサファリラリーの準備で大わらわ。日産としても日本グランプリには関心をもっていなかったらしい。サファリはセドリック、ブルーバード2つのクラスで初のワークス参加なんだもの。さらに、ブルーバードは来年にモデルチェンジ予定のモデル末期車両。たぶん、車両を用意しただけ。B-Ⅱクラス(国内スポーツカー 1300~2500cc)のみで勝利し、この田原源一郎のフェアレディSP310は国内仕様のシングルキャブではなく、輸出仕様のSUツインキャブが付いていた。また、ウインドシールド(前ガラス)も輸出仕様の低いタイプが付いていた。この改造を日産がしたのか田原さんが個人的にしたのかは不明。だって、フィニッシュ後、「フェアレディにしては速すぎる」と他所のチームからクレーム付いて再車検したとき、輸出仕様もJAFに(一番誤記の多い資料本のミスと思われる)登録してある、と退けてるのは、メーカーの頭脳くらいありそうだ。最低限の戦闘力追加か。田原源一郎自体は、このあと、日産のSCCN(日産スポーツクラブ)の会長を引き受けるし、この後の日産ワークスのために田中健二郎を呼び寄せたりするけど、布の卸しをしている実業家で、催し物のノボリとか手がけてる。あと、日本競馬会JRAの仕事もされてる。
日野はノーマルマシンの提供で、プライベート任せ。とはいえ、のちに日本オートクラブになる105マイルクラブが主体だったので、一部のマシンには3速ミッションを4速に改造していた。もっとも、誰もレギュレーションがわかってないからやったことで、4速コンテッサ900は本来のC-Ⅲ(ツーリングカー 700~1000cc)ではなく、B-Ⅰ(国内スポーツカー 1300cc以下)に編入された。それでも2位でフィニッシュ、1位失格で優勝したが。
プリンスは本当に特に準備せず。生沢が逆に売り込みに来た。グロリアとスカイラインのセダンをツーリングカーに、スタイルだけ美しいスカイライン・スポーツをスポーツカーに出走させる。生沢とR・ジョーンズ、W・レイク以外は社内のテストドライバーらしい。
さて、スズキは2輪レース部隊のチューニングだ。いすゞのヒルマンは本国のスポーツキットの装着だ。フェアレディの田原はSUツインキャブ。105マイルクラブのコンテッサの4速ミッションは不明だが、ルノーのゴルティーニのキットか。
では、「バルブの摺り合せ」くらいやったというトヨタのチューニングが誰がどうしたのか。資料本を多数重ねて読んでいたらあった。
『山田輪盛館』
ヤマリンだったのか、ホスク懐かしい等と言ったら、80歳以上のお年寄りだ。私だって、浅間レース時代を知る、浅間ミーティングクラブの中沖満さんの著書でヤマリンを知ったのだ。
山田輪盛館は、東京、神田にあり、外国オートバイと部品の輸入、サービスを手がけていた業者で、当時の最速大型バイクといえば英国車だ。ノートン、トライアンフ、BSA、アリエル、AJS、エクセルシャー、ヴェロセット等。ブラフ・シューペリアやヴィンセントなんかの超高価モデルはないだろうけど。イタリア車はまだドゥカティは小型車だし、MVアグスタ4気筒はレース用しかないから無い。BMWは昔からバルコムだから扱わないはず。そして、オーナー向けのメンテナンスもやっていた。さらに、その技術を生かし、「ホスク」というブランドで、独自に大型バイクも製作・販売していた。さらに、部品加工技術があるので、トヨタに部品を卸していた。
だから、チューニングの技術はトヨタは山田輪盛館に依頼していた。ヤマハはまだ日産と組んでGT車を企画しているから。後にトヨタに移ってトヨタ2000GTとして完成するが。
チューニング内容は、やはりバルブ摺り合わせ(バルブの密着を高めるとともに、ヘッドの接触面積を減らして熱に強くする)、ポート研磨(給排気の流れを良くする)、カムシャフト作動角変更(高回転型にする;ハイカム)は資料本に書いてあった。書いてないが、たぶんヘッドの面研(ヘッドのブロック当たり面を削り、燃焼室の圧縮圧を上げる)もやってたんじゃないかな。現在のTMSCのサイトをのぞくと、圧縮比アップと書いてある。他に、バルブスプリング強化、キャブレターのジェット大型へ交換と本格的だ。
トヨタも完全に丸投げというわけでなく、エンジン以外も耐久性を高めるための改造をしていたと資料本にある。サスペンションの強化、コロナは最終減速比を変えるため、輸出仕様車とデファレンシャルギヤ交換。なんと、エアクリーナーもそのままではないが、あったようだ。
とはいえ、まだボディーの軽量化まではいってないらしい。第2回にトヨタ自販のワークスに迎えられた大坪善男は自分のクラウンで出場するように言われたが、自工のワークス車両のボディーが、軽く押せば凹むほどだったと証言している。クラウンはフレーム車だから、ボディーをアシッド・ディップ(溶接済み塗装前ボディーを酸の槽に漬けて鉄板を薄く侵食させる軽量化)しているのだろう。でもこれは第2回で、第1回の経験から軽量にして大丈夫との判断ではないだろうか。なにしろ第1回が終わるまで、どうなるかテスト走行しかわからないんだから。
手探りで、というのは本当で、マシンのチューニングや軽量化はあっても、タイヤの重要性までわかってない。もちろん、練習や予選でわかってきたのだろう。BSは何しをてたが記述がないが、日本ダンロップは現在のエコタイヤ「エナセーブ」の祖先の「ダンセーブ」をサーキットでサービスしていたらしい。若い衆には「ダンセーブ」はオジン臭いセダンタイヤの印象があるかも知れないが、当時はもっともハイグリップのタイヤだったらしい(ダンロップ比)。プライベートでオンボロの1955年製DKW900で出場した津々見友彦は、15インチだったので、14インチまでしか用意されていなかった「ダンセーブ」を履けず、トラック用タイヤをもらったそうな。まだフォーミュラーSPスポーツとかルマンとかD40とかDIREZZAとか商品無いんだから。
こんな風に、マシンはかなりチグハグだ。次の稿では、リザルトの残っている人を中心に、ドライバーを見ていこう。
そうそう、まず、メーカーとは別に、講師付き練習会が開かれたんだが、その講師も事前練習した。ヨーロッパのラリーやレースに出ていた古我伸生(ジャガーXK120)、のちにCar Graphicを創刊する、当時はモーターマガジンのフリーライターの小林彰太郎(MG仕様オースチン)、彼の友達で日野の技術者の武田秀夫(シトロエンID)、ほのぼの人気漫画家の佃公彦(ボルボPV544)、ストックカーレース経験のあるR・ダンハムらが講師になったらしい。ダンハムは国産車で走って、普通なラップタイムだったが、他の講師のアメ車、ポンティアックを借りたら最速だったって。一般講習の際、小林彰太郎は、参加者が、タイヤの空気圧を高めることも知らないのに驚いたらしい。まだ、高速道路が1つも出来てないから、高速走行時の基本的注意も知らないんだよ。