自動車、オートバイ、エンジンの、ちょっと前のハナシが詰め込まれているまとめのようなブログ
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1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争は終わった。
「欲しがりません、勝つまでは」。勝てなかったし、戦争が終わっても欲しいものが手に入る訳じゃなし。
軍関係施設、軍需工場は軒並み爆撃を受けて壊滅状態。さらに都市にも空襲をしたので、東京も大阪も名古屋も焼け野原。
連合軍は占領政策を実施するGHQを設立。GHQは日本の再軍備を潰すべく、航空機産業を廃止し、自動車もトラックを認可した数量だけ生産に追いやってしまう。
だから庶民の闇市買出しの足は自転車がせいぜいだ。ところが、「バタバタ」、「ポンポン」と呼ばれる「エンジン付き自転車」が現われ始める。
誰が始めたのかは知らない。当時、メグロ(カワサキに吸収)は小型エンジンを単体で販売していた。また、イギリスのビリヤースのエンジンも安くたくさん輸入されてきた。輸入?そう。小型エンジンはイタリアのミナレリとかドイツのザックスとかあるけど、こいつらは多分同盟国だったんで輸出は無理だろう。フランスはあっけなく降参して戦禍が少なかったが、イギリスはドイツの爆撃を受け、第2次産業は「輸出か死か」という状態がしばらく続いていた。そのせいでビリヤースが多量に来たんじゃないかな。
戦前に自動車修理販売のアート商会浜松店を譲った本田宗一郎(敬称全て略)はピストンリングを軍にも卸してた東海精機重工をトヨタに買ってもらい、戦後ちょいと下らない発明事業をして遊んでいたが、知人から、旧日本軍の6号無線機用の発電エンジンがたくさん放ったらかしになっているのを聞いて、1946年に「バタバタ」の製作を始める。湯タンポを燃料タンクにして、うまくいったらしい。500台も作って、余り物エンジンが無くなると、いよいよ自前でエンジンを開発、「エントツエンジン」といわれる2ストのA型を発売。クランクシャフトの材料は、旧日本軍の砲弾で、これから削り出しで作ったって河島2代目社長も言ってる。
そうそう、まだ、このころは、ガソリンが買えないんだよ。国家総動員製で始まった配給制で切符が無いと買えない。石油消費規制というらしい。自動車は軒並み木炭車に改造されて走っていた。切符は戦前からある自動車所有者団体のJAAから優先されるから、なんとか「バタバタ」手にして稼いでいる庶民に届く訳がない。亜麻仁油とか松根油とかで代用。中沖さんの連載では、この時代こそ「バイクの時代」だったと言っている。エンジンを自作したホンダはともかく、適当なエンジンと自転車があれば「バタバタ」は作れるんだ。たくさん作ったらしい。「サンダイメーカー」、「ヨンダイメーカー」って言葉があって、実はこれは「カストリ雑誌」と同じで、「3台~4台作ったら止めたり倒産したりするメーカー」のことだ。でも、「俺はこれで儲ける」、「俺が作ってやる」って人が多かったんだね。
ホンダの「バタバタ」はまずまず好調で、A型から改良されてB~Dと生産されていく。まさかそのころは砲弾クランクじゃないと思うけど、わからない。とりあえず、宗一郎は好きだから、スポーティーな本格バイクの開発・生産を始める。ドリームE型、まだ2スト。ここで独創的なのは、フレームを作る鋼管パイプの品質が悪いというので、鋼板プレスで似たようなチャンネルフレームを作ったこと。実は戦前からハーレーのコピーを作っていた陸王も、国産パイプが弱いんで、肉厚の分厚いパイプを使っていたんだ。だからハーレーより重い。
そんなころ(1949年)、財務に弱い発明家な宗一郎の所に、藤沢武夫がやってきてくれる。ホンダを二人三脚で支えた彼は、技術には疎いということになっているが、実は凄い進言を何度もしてる。1951年発表のオートバイ、ドリームE型が4ストになったのは、彼が東京のスクーター事情を視察し進言しての結果で、そこから「ホンダは4スト」という独創性を発揮していく。また、「バタバタ」の販売力が弱くなったときに、より簡素で低価格なものをと進言して出来たのがエンジンを後輪に置いたカブFだ。1952年発表で、販売店を一気に増やしていく。
ちなみにドリームE型はOHVだ。1947年から始まった国産スクーター(富士重工のラビットと新三菱のシルバーピジョン)はサイドバルブの4スト。トヨタやダットサンの自動車もサイドバルブ。航空機はOHVだったのにねぇ。
ちょっと戻るけど、1949年に二輪運転免許制度が施行。それまで野放しだったのかな?また、ホンダの最初のスポーティーバイク、ドリームEが出る前年の1950年に原付と軽二輪の車両規格が制定されている。まだ原付では4ストと2ストでは排気量が違ったりするんだけど、逆にここまでが野放しなんだね。
1952年には、先に書いた、ガソリンの統制が廃止された。やっと、自由に乗れるのかな。あと、軽二輪の車検は廃止された。今もそうだね。原付は許可制(近所の警察に行って許可証をもらえばOK)になった。
1953年で、スズキがやってくる。本来スズキはトヨタ同様、織機メーカ。大儲けだったらしいが、海外視察の際、インドで50年前のイギリスの織機が動いてるのを見て、織機以外に手を広げなきゃと思い、自動車の開発はしていたが、エンジンの技術に目処が立ち、「バタバタ」のパワーフリーを発表。翌1954年には改良したダイヤモンドフリーを発売。1955年には125のオートバイ、コレダを発売。
ヤマハは?「バタバタ」は無いけど、同じく1955年からオートバイ市場に参入してくるんだが、次稿まで待ってね。
カワサキは?まだメグロとメイハツ(明石発動機)の時代だよ。メイハツは小排気量車がいろいろあるらしいけど、あんまりストーリーには絡んでこないんで、ここでは割愛。
「バタバタ」は前回まで、そろそろオートバイの話にしていこう。ただし、富士登山レースや浅間レース、マン島TTとか世界GPとかの話は無しね。
1954年には目立った動きは無い。ヤマハが参入してくるのは1955年のことだ。楽器以外を、と考えていて、ドイツのハーキュレーとDKW RT125を比較して、DKWのコピーを出すことに決めた。DKWはドイツの4つの自動車メーカーが集まったアウトユニオンの一つで、終戦でドイツが東西に分裂した際に分断されてしまったメーカー。実は4ストに比べてなかなかパワーが出なかった2ストエンジンをちゃんとパワーが出るようにシリンダーのポート加工方法を確立したのがDKW。ちなみに東ドイツに分割されてしまった方はMZとメーカー名を変え、ロードレースGPで2ストの星として活躍し、エルンスト・デグナーの亡命からスズキにチャンバーの技術をもたらしたのは2スト好きならご存知かな。初代YA-1は、そのままコピーでパイプフレームだった。
そのころのホンダというと、125のベンリーはまだ2ストで鋼板プレスバックボーン、ドリームSAが新発表で、初めてOHVからOHCになった250シングルだ(ドリームは200cc未満から少しずつ拡大してきた/ただし途中で調子が悪くなるというホンダ第1の危機があった)。もちろんプレスバックボーン。ヤマハもYA-1のパイプフレームに何かあったのかもしれない。年内にホンダ式のプレスバックボーンのYA-Ⅱに変更している。
スズキもコレダ125を発売。カワサキも125くらいまでなら実用車を出している。
ここで、250ccな話をしよう。先稿にも軽二輪の話を少ししたけど、当時の免許制度は、許可制の原付免許、250未満の軽二輪、250以上の自動二輪という区分だった。実はコレ、車検だけでなく、走行区分というのが違った。1車線でも、軽二輪は左側、それ以上は右側を走って良いという変な区分があった。もちろん運転免許検定試験が易しいのは軽自動二輪免許(どの程度か知らないけど)。まだ、交通量もそんなにないし、車検の手間とカネを考えたら軽二輪がまだ貧しい日本には望みだ。だからスポーツとしては各メーカーは250に力を入れたくなる。吸収合併されちゃうけど、メグロやみずほ自動車のキャブトンや陸王とか、大きなバイクのメーカーは細々とはやっていたんだろう。
スズキは1956年にコレダTTという250シングルを発売。現在ある中沖さんの単行本では軽くしか触れられていないが、実は連載当時には大きな自筆イラストで解説されていた。売り出し文句は「オートバイのキャデラック」だそうだが、本当にクロームメッキでギンギラギン(もちろんオールメッキじゃないよ)。マフラーにフィン状のヒレ付けたりとデコトライブ。ヘッドライトナセルは、丸いヘッドライトの下に横一文字にポジションランプが並び、ミラーに映る様は「ガイコツ」だったらしい。ちなみにこのナセル、ポジションランプのせいで下がフラットになったので、これ以後もしばらく、スズキの実用車などのヘッドライトナセルはポジションランプ無しでも上は丸く下は水平となっていた。
1957年は当たり年だ。ヤマハは175ccのYC-1をまず出す。これもDKWのエンジンのコピーらしい。
外観デザインを手がけた小池岩太郎は、独立して「GKデザイン」という工業デザインの会社を興す。以降のヤマハ発動機製品ほとんど手がけてるし、キッコーマンの醤油注しのデザインも彼らだ。
ホンダは250ccが2気筒になった。本田総一郎が輸出まで念頭に、「日本的なスタイルに」ということでプレス技術を駆使して作られた名車、C70だ。18ps。「神社仏閣デザイン」って言われたね。このくらいは本にあるのだが忘れられているのがC75。C70のボアアップ305ccバージョン。狙いは「軽二輪の上、中央寄りの走行」さ。パワーに大差なし。
ヤマハの250ccはホンダ同様2気筒で来た。ドイツのアドラー社のファポリット・スプリンター250という16psのエンジンをコピーし、YD1を発売。車体は鋼板バックボーン。
煙モクモクのコレダTTはわからんが、YDもC70も市場からは好評だったらしい。実用も兼ねたスポーティーバイクで(分割されたリヤシートを外して荷台にもなる)。カミナリ族もこの2台から始まったらしい。メグロだった白バイは手を焼いたらいいよ。だって、それまでの交通の取り締まりって、危険運転やスピード違反ではなく、戦後のヤミ市に運ばれる統制品の不正輸送の摘発が主だったんだから。もちろん、自動車も少ないから駐車違反取締りとかもユルイんだろうな。
1958年はスポーツじゃないところのエポックメイキングだ。ホンタの藤沢武夫が「蕎麦屋が出前でオカモチ下げて行けるような原付があれば」の進言に否定的だった本田宗一郎がスーパーカブC100という回答を出したのだ。そろそろ鋼管パイプの品質が上ってきたので、お得意のプレスバックボーンと組み合わせた簡素な車体。オカモチ下げても発進・変則できる自動遠心クラッチ。多少の濡れた路面でも汚れないレッグシールド。そして一番の驚きはエンジンだった。まだOHVのエンジンで、2スト以上の高出力で、125ccの2ストでも80~90km/hがやっとのところ、8500rpmも廻って70~80km/hまで出せた(戦前戦中の航空機のエンジニアがその回転数に驚いてホンダに転職したというハナシもある)。これでラビットやシルバーピジョンのスクーターは小さいものから失速していく。シルバーピジョンは1964年にラビットは1968年に生産中止だ。
ところでスーパーカブ出す前のホンダの原付はどうなっていたのかな?1952年のカブF発表以降、いつ生産中止とか、全然データが無いぞ。
そしてスーパーカブ以降の話できちんと考えておかなければならないのが、輸出のことだ。もちろんスーパーカブは輸出の切り札、第一陣となったハズだ。それ以前は?私だって詳しくはわからない。だけど市場について資料に当たったり想像したりして整理すると、
1.ヨーロッパはそれぞれ伝統的なメーカーがあり、戦後とはいえ供給と市場需要は新興日本車としてはあんまりなさそう。
2.アメリカは自動車が行きわたりオートバイの市場はスピード狂の好き者(イギリス車を好む)とヘルスエンジェルのようなアウトローバイカーのみの狭い市場しかない(ブラックジャケットというらしい)。しかも軍用ハーレーが終戦で安価に市場に放出されてる。
3.オセアニアはよくわからない。ただし、ヤマハは他社よりオセアニア重視だったもよう。
4.中南米もまだわからない。ゲバラがバイクで駆け回ったのは1951年、マシンはイギリスの1939年型ノートン500モデル18。彼はもともと裕福な家庭らしいし、ポテローザ号は10年選手のポンコツだ。あんまり市場は無さそうだなぁ。
5.ソ連は、東ヨーロッパの製品でなんとかなるはず。西側の製品なんか要らないのだよ、冷戦初期は。
6.中華人民共和国は自転車の時代。
7.アラブ、アフリカ、インド、東南アジアはたぶんまだ市場が無い。
ってところじゃないかな。重要なことは、アメリカにオートバイの市場がほぼ無く、日本の暴走族のように白眼視されてた、ってことだよ。もちろんスーパーカブは共産圏以外には着実に売れていくんだが。
資料で調べたスーパーカブの歴史では、アメリカ輸出は1959年からってなってるし、輸出仕様のCA100は1962年ってなってる。どっちかわからないが、ホンダはスーパーカブをバイクショップに置くんじゃなく、スポーツショップやレジャーショップに置く販路をまずつけた。釣りやハンティングにどうぞ、ってな具合で。これは当たったらしい。そして有名なキャンペーン「ナイセスト・ピープル・ライド・オン・ホンダ」( Nicest People Ride On Honda )を始める。日本でも「良き人、ホンダに乗る」って宣伝していたんだ。これで、アメリカの若者たちが手軽なバイクの魅力に気がついた。そう、死んでいた需要を掘り起こしたんだ。ならず者の乗り物からスマートな乗り物へ。少し年は下がるが、1963年には「サーフィンUSA」で有名なビーチボーイズとタイアップをしている。「ホンダ55キャンペーン」を彼らが歌ったんだ。日本のバイクブーム初期に、スズキが鼻を整形する前のマイケル・ジャクソンをスクーターのCMに起用したけど、あれは日本市場のハナシで、ビーチボーイズのキャンペーンは北米とヨーロッパまで影響する凄い規模だ。彼らは64年に「リトル・ホンダ」って曲をアルバムに収め(ソノシートはホンダ販売店で配り)、ライブのときにスーパーカブに乗って舞台まで登場、とかまでしいてた。「リトル・ホンダ」って曲は「ホンデルズ」ってグループがカバーして、全米9位までチャートを駆け上っている。オリジナルもシングルカットされて北欧で凄いチャートアクションだったらしい。
ちょっと時間を戻そう。1959年にはヤマハがYD1のエンジンをベースに20psまでパワーアップして、スポーツ専用車両、YDS1を発売した。鋼板プレス材のない、パイプワークフレームで、低いハンドル。剥き出しのエアクリーナーはまるでマシンガンのドラムマガジンのようだ。ハッキリ言ってカッコイイ。もちろん名車だ。
翌年1960年にはホンダが対抗する。CB72だ。これも、初めてフレームがパイプワークだ。24psとYDSより多いけど4ストだからちょっと重いから同レベル。これもハンドル低くてカッコイイよね。エンジンパワーアップでC70もC72に格上げ。C75はC77、CB77って名前で305ccで健在。クランク角度のハナシはあえてしないでおく。YDS1オーナーだった中沖さんによると、CB72は倒しこみが重かったらしい。「頭が重い」って。
本格スポーツ車だから、日本市場はもちろんこれらを求めたろう。そして、スーパーカブやビーチボーイズの歌や「ナイセスト~」のキャンペーンでオートバイの楽しさに目覚めたアメリカの若者だってこれらを求める。ドッジ・ライン1ドル360円に固定で日本製品は安いし、いい輸出材料になったハズだ。他のメーカーだってホンダが掘り起こしたこの大市場に売って出たいのは当然だろう。
まだスズキとカワサキは桧舞台には出てこない。その前に少し。
YDSは2年後の1961年にパワーを23psに上げて、ブレーキを強化してYDS2になる。確認できるのは、260ccにボアアップしたYES1が出ている。ヤマハ初の脱・軽二輪だね。さらに2年後の1964年に混合燃料からオサラバ、オートループで1psアップのYD3になる。24psか。このときには305ccボアアップ版のYM1が出ていること。26psだって。あんまり差が無いなぁ。センター寄り走ることができればそれでいいのか。
次の年1965年からスズキが出てくる。が、それと同時に起こることもあるのだ。詳しくは次の稿。この稿のまとめとしては、日本のスポーツバイクは250ccで磨かれたということだ。